あたしは、どうすればいいんだろ 白妙の森とやらは戦災院の裏にある、大きな森だった。 なるほど、白妙と言うだけあって、森の中は真っ白だ。 雪が積もっているわけではなく、樹木の幹、葉っぱ、全てが白い。足元の土はさすがに茶色いけど、霜柱が生えていて、全部真っ白に染まっている。 目に入る全てが真っ白だ。ついでに、霧が出ていて、少し肌寒い。 「・・・クリスマスシーズンにぴったりな森ね」 電灯で飾り付けて、夜を照らせばさぞ綺麗だろう。小さい頃に憧れた、サンタクロースが住んでいそうな森だ。 もしくは、C・S・ルイスのナルニア国ものがたりに出て来そうな、鬱蒼とした森。ただし、ここは冬で彩られてはいない。ただ、白亜と言う色が存在するだけだ。 「まおーさま、まおーさま! こっちこっちぃ!」 「あーはいはい、はしゃがないの」 エディスあらため、えっちゃんは走る。頭の緩そうな子だなあと思ったが、想像以上におてんこさんらしい。 と言っても、外見と精神年齢が一致しないのは、異世界でもどこでも同じだ。 「・・・うーん・・・季節がいつだか知らないけど・・・寒いな、やっぱ」 クリスマスにぴったりなのは、外観だけじゃない。この辺りの気温は、まさに冬に入りつつある、初夏ならぬ初冬の時期。大体、十月くらいの気温だと思う。そこそこに寒いけど、気になるかどうかは微妙な気温だ。 「まおーさま、みて!!」 エディスの指さした方向には、大きな柱があった。 氷、ではない。 白い何かに霜柱がびっしりとひっついている。 「・・・? 何、あれ?」 「水晶蟲のさなぎだよ」 「すいしょーちゅー?」 聞いた事のない名前だ。何だ、それ。 「あのね、この森にいる虫で、すっごくきれいなの。口から水晶を吐くから、人間に狩られてね、トールさまが保護してるの」 なるほど。人間によって乱獲された生物を、ここで守っているということだ。言うなれば自然保護区ってヤツか。 今の余裕がある現代社会ならまだしも、中世の封建制度が息づいた社会では存在しない制度だ。 それはそれとして。 「トール様?」 北欧神話の雷神さまの名前じゃないか。 「しらない? 最近みないんだ。びょーきなのかな?」 「・・・うーん」 トールとやらは、もしかしてここの行政、というか自然を管理する人間(と言っていいものか)の名前だろうか。 行政システムなんざ、まったくわからん。興味もないし、関わることもない。 ・・・いや、後の日本を担う若者として、ちょっとヤバいんじゃないかって気持ちはあるけど、知っていたからどうなんだって言われたら、言い返せないし。 「ぼくはね、おかあさんもおとうさんもいないんだ。でもトールさまや、アーカーさまや、ユージスにーさまがいる」 エディスは霜柱をざくざくと踏む。若草色に輝く、宝石のような角が光を浴びて乱反射する。 まるで、エディスは緑の妖精みたいだと、ガラにもなく思ってみる。 「まおーさまはねぇ、おとぎばなしにでてくるんだよ」 「・・・おとぎばなし?」 魔王が出てくるおとぎ話といったら、やっぱアレか。悪巧みをする誰かがいて、それは魔王で、倒されてとか。 ・・・あ、でもそれじゃ、ここは滅んでるか。 何て言うか、ここはあたしの想像する魔王像とは別のものを形成している気がする。 魔王が雑用だの、公務員の仕事しかしないだの、色々とおかしい。王の仕事としてはおかしくないかもしれないが、どうにも納得できない。 この際、あたしは魔王と言うより女王になれって言われていると思った方がいいのかもしれない。 ・・・どっちにしろ、お断りだ。自慢じゃないが、リーダーシップがあるとは思えないし、委員長と呼ばれたいとも、先生みたいに慕われたいとも思ったことはない。 そんなヒーロー願望は、あたしにはない。ただ、あるとすれば、捨てられた犬猫に餌を与えて、名前を付けて、可愛がる。両親に頼み込んで、飼えないか相談する。ダメなら諦める、その程度の良心しかない。 「昔、わるいおうさまがいました。わるいおうさまは、わるいことをしすぎて、優しいおうさまにたおされてしまったのです」 楽しげな響きで、エディスは物語る。知っていることを誰かに教えるのが楽しくてたまらない、そんな小さい子供特有の無邪気さがある。 「優しいおうさまは、わるいおうさまのために、お墓をたてて、そこにいました。そして、優しいおうさまは、ずっとそこからはなれませんでした」 「・・・それで、どうなったの?」 「んっとね・・・優しいおうさまは、みんなに好かれて、いっぱい仲間ができて・・・まおーさまって呼ばれるようになったんだよ」 「・・・なるほど」 王で、良くあるのが神の末裔だとか、高名な騎士の血を受け継ぐとか、そんな話を良く聞く。 あたしには良くわからんが、血筋というのは重要らしい。まあ、性格が親子で似るのは良くあることではあるが。 「まおーさまは、まおーさまだね! おもったとおりだ!!」 「は?」 「すっごくやさしくて、つよいってわかったよ!」 「・・・いや、それは」 違う、と言おうとした。だって、あたしはそんな立派なものじゃないし。 その刹那。 きしゃああああああああぁっ!!! 何かが、叫ぶような声を、響かせた。 「うわっ!?」 じゃあっ とっさにその場から逃げる。そこには、白くて細い糸みたいなのが固まっていた。 「な、何これ・・・?」 糸、だと思う。けど、何か妙に嫌なカンジ。粘っこくて、すぐにそれは固まった。糸を吐いた何かは、あたしはそれを見ると、背筋のあたりがぞくぞくとした。 ついでに、霧も濃くなって、視界は最悪。けっこうヤバくないか、これ。 「まおーさま! このこ、水晶蟲だよ!」 「さっきのさなぎのご主人サマかい・・・!」 どうやらさっき見つけた霜柱の主、ご帰還らしい。 何て言うか、節足動物の甲殻類と一目でわかる外見だ。カブトムシとか、クワガタムシとかじゃなくて、三葉虫みたいなの。 あれを膨らませて、蟹みたいなハサミがつけたような、そんな感じだ。10個近くある目は硝子色にきらきら光って、半透明な節くれが動くたびに輝いた。 あんまり直視はしたくない。家庭の天敵、黒の悪魔に比べればかわいいものだが、あんまり好ましい外見ではない。 気持ち悪っ、と言ってきゃあきゃあ叫ぶ暇なんかない。 「・・・逃げるよ!」 「ええ!? 戦わないのっ?」 「アホ! 死にたいのっ? あたしは魔王じゃないし、魔法だって使えないの!!」 しゅばっ 背後から、何やら白銀のキラキラしたものが舞い散る。 だらー、と糸みたいなものを吐いた水晶蟲くん。うん、あたしの第六感が告げてる。 その、蜘蛛の糸っぽいのに触ったら、危険だ!! 「・・・うそだ・・・まおうさまは・・・」 「エディス!」 あたしは手を伸ばして、緑色の妖精みたいな少年を突き飛ばした。 じゃっ! そして、溶ける地面。霜柱に覆われていた白の大地は、あっというまに大量の水蒸気を放ち、茶色に戻った。 それだけじゃない。この水晶蟲、口から糸を吐くのだが、温度調節でもしているらしく、ハサミ状になった口から湯気を出している。 ぬっくい、どろどろの透明な糸が、地面に落ちる。さすがに生理的嫌悪感を受ける。白糸は、霜柱に覆われた大地をぶくぶく泡立たせて溶かした。それなりの温度を持っているらしい。 「キモいなぁ・・・」 「まおーさま・・・」 エディスが心配そうにあたしを見上げる。 あたしは、魔王なんかじゃない。けど。 「小さい子を家に送る責任はあるんだよね・・・!」 怖い。 こんなに怖い思いをしたのは、いつ以来だろう。命の危険を感じる。 多分だけど、あの糸に捕まったら一貫の終わり。きっと絡めとられて、動けなくなって、それで終わる。 でも、終わらない、と思う。あたしとエディスの命は。 水晶蟲は動きが遅かった。全速力で逃げれば何とかなると思う。追いつかれるかもしれないが、逃げるしか方法が浮かばない。 「やめて!!」 「っ!?」 エディスはあたしの腕から離れて、あたしを庇うように両手を広げた。 一体何を・・・? 「まおうさまを、きずつけないで!!」 「・・・・・・・」 一体、この子は何を言い出すのだろう。 小さな腕で、あたしの前に出て、エメラルドの角を前に突き出す。 大事なものを守るみたいに、勇気を振り絞って叫ぶ。 「まおうさまは、またきてくれたんだっ・・・ぼくにやさしくしてくれたんだ! だから、きずつけないで!!」 「エディスッ・・・!!」 違う、違うんだよ。あたしは、魔王じゃなくて。魔王なんかじゃなくて。 「まおうさまを、きずつけないで!!」 「エディ」 ス、と続くはずだった言葉は、かき消されてしまった。 しゅばあぁっ!! 水晶色が煌めいて、若草色と、あたしの声が飲まれた。 目の前が真っ白とも、緑とも、真っ赤ともつかない色で、いっぱいになる。 何だ、これ。 あたしの目の前で、何が起きた。 水晶の糸。それは、エディスに絡みついていた。どこから吐き出されたのか、そんなものわかってる。 水晶蟲。そいつが吐き出した糸が、エディスに直撃した。 エディスは、水晶に呑まれ、彫像みたいにそこに立っている。 きらきら光る、水晶の棺に封じ込まれた像がそこにある。 繰り返す。何だ、これは。 「・・・エディス?」 ねえ、返事してよ。 あたしを守ろうとしたとか、そんな寒いこと言わないでよ。 あたしはただ、アーカーに頼まれて、草むしりしてて、あんたはそれを手伝ってくれただけでしょ? あたし、魔王じゃないんだよ。 そんなの、全然わかんないんだ。前の魔王のことだって何も知らないし、この世界のことだって何も知らない。 なのに、どうして? どうして、あたしなんかを庇ってくれたの? 魔王だとか、そんなんじゃなくて。 『まおうさまを、きずつけないで!!』 響く声は、はっきりと聞こえた。そして、理解する。 エディスは、あたしなんかを庇ってしまったと。 「・・・イヤだ・・・・」 そんなの、いやだ。 あたしは魔王じゃない。魔王じゃないのに。 エディスは自分の信じた“魔王”を庇ってしまってて。 終わらないで、消えないで。 あたしは必死に頭の中で叫ぶ。 あたしみたいな、無責任な人のせいで、死なないで。 まだ、幸せの意味も知らないまま、死んじゃイヤだ。 君が死ぬなんて、絶対に認めないし、イヤだ。 理屈じゃなくて、本当にイヤなんだ。 「イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤ・・・イヤ、い、いやああああああぁぁぁっ!!」 今度は、視界がぼやけて、にじんで見えた。 大気に悲しみが満ち溢れていく。 広がる波紋は、感情の暴発と、力の誘発によって生み出されたもの。 けれど、そんなことは些細な事だ。 目の前にある、消えかけている命に比べれば。 「エディスを・・・返せ・・・」 水晶蟲がびくりと怯えた気がした。 感情があるのだろうか、虫にも。 「返せ・・・」 地獄の底から響くような声は、あたしの声だ。あたしの声は、こんなに低かったのか。 自分の声なのに、いつも聞いていた声とは違う声が聞こえた。 「返せよ・・・」 水晶蟲は、ハサミをちきちきと鳴らす。 もう、我慢の限界だった。 「返せっつてんだろっ!!」 どくんっ! 身体から、脳から、力が駆け抜けていった。 意識してやったつもりはないが、あたしは手を伸ばしていた。 手に、強い圧力がかかった。何か、吐き出そうとする力と、それに吹き飛ばされるような、極端な力に。 妙な感じだ。手の中が熱い。内側から、何か別の生き物が宿って、脈打っているような、そんな感覚。 異変は、すぐに起きた。 熱い、と感じた場所から、光が放たれた。 それは、全てを飲み込む大蛇のように、顎を限界まで上げて、食らった。 ぴしゃああああっ どおおおおんっ!! 「っ!?」 音もなく、水晶蟲はそれを食らって、直撃すると同時に轟音。 何が起きたかわからない。でも、エディスを傷つけた水晶蟲が死んだのは、嫌でもわかった。 黒焦げになったそれは、ひっくり返って足をばたばた痙攣させて、やがて動きを止めた。 気持ち悪い。 虫の死骸も、エディスがなんでこうなったのかも、魔王のことも、何もかも。 もう嫌だ。何であたしばっかり、こんな目に。 しゃあぁぁぁあ・・・ 「!」 背後から、息を吐くような声が聞こえた。振り返ると、白い木の間には黒い水晶蟲の姿が見えた。 しかも複数。 仲間がやられたのを嗅ぎつけてきたのだろうか。その仲間意識には、感心する。 もう、ダメだ。 「・・・何で・・・何であたしばっかり、こんな目に!!」 大嫌いだ。こんな場所、こんな世界も。 何も要らないから、あたしを家に帰して。 「帰してよぉ・・・」 そして、戻して。時間を、戻して、あたしがこの世界に来る前に。 あたしの口から思わず漏れた声は、驚くくらい情けない。ガキだ。都合が悪いと泣くあたしは、あたし自身が苦手と自負する子供と同じなのだ。 「ご苦労さまです、陛下」 「・・・っ!?」 気が付けば、涙がこぼれていた。 頬に伝う涙は、声が聞こえた方へと向くと、そこには全ての元凶がいた。 「アーカー・・・」 黒い法衣を着た、憎々しいまでに冷静な男と。 「・・・すいません」 剣を抜き、その痛みを堪えるような、金色の人と。 「ミリダス・・・」 ざっ 全身鎧を着た、顔の見えない誰か。 「・・・シグナル」 シグナルはあたしに近づいて、手を取った。あたしは怯えて、その手を思いっきりはたいた。金属の篭手は、冷たくて、あたしの手に鈍い痛みを残した。 「触んないで・・・」 触ったら、何かが壊れてしまう。そんな気がして、触れなかった。 「・・・御意に」 シグナルはあたしのワガママを聞いて、あたしから離れ、水晶まみれのエディスを抱きかかえた。その顔は、嫌でも青白く見える。 「エディスッ・・・!」 「お下がりを、魔王様」 アーカーがスーツを翻して、あたしを促す。あたしは思いっきりと、アーカーを睨んだ。だが、動じるヤツじゃない。 「・・・シグナルの指示に従ってください」 ミリダスは相変わらず優しそうだった。けれど、今は何より悲しげで、あたしとエディスを交互に見ると、目を伏せた。 「・・・すいません」 「・・・っ!!」 あたしは、その場にいた全員から顔を背けた。 情けない、情けない、情けない! あたしは、何でこんなに無力なんだろう。 その時のあたしは、悔しさを噛み締めて、その場を後にするしかなかった。 遠くで、紅蓮の炎が瞬いた気がした。 かちこちかちこち あるはずもない時計の音がする。あってくれたら、どんなに助かったのだろう。この重苦しい白い沈黙を、誰か薙ぎ払って。 病院らしいところに運ばれたエディスは、白い角を生やした人に連れて行かれた。じろじろと見られたが、そんなのはどうでもいい。あたしを魔王と言って、慕ってくれた少年の命を救ってくれるのなら、何だって良かった。 もう、数時間経過したみたいに感じる。 がちゃりと、扉が開いた。 「あ、あのっ!」 出てきたのは、真っ白な角を生やした男の人だ。始めて外観をじっくり見れた。 長い銀の髪はサラサラで、深い海の底のような目でこちらを見てくる。何の感情もないその目には、何やらぞくりとくるものがあるが、そんな感覚に構っている暇なんてない。 「エディスは・・・?」 「助からない」 「・・・・は?」 きっぱり。そんな効果音が聞こえてきそうだった。 何て、何て言ったんだ、この男。 「・・・誰が、助からないの?」 「エディスだ。あきらめろ」 「なっ・・・!!」 何を言ってるんだ、こいつ。 エディスが、死にかけてるのに。 命が、消えようとしているのに。 なのに。 「あきらめろって・・・あきらめられるわけ、ないじゃない!!」 どんっ! あたしは気付けば、銀髪の男の胸倉をつかんだ。 「あの子、まだ小さいのよ!? それを・・・!!」 エディスは、まだ物の分別がかろうじてついた年頃だ。 あたしとは違う。きっと友達も多くて、楽しくて仕方がない輝かんばかりの未来を歩もうとしている。 それが、終わりを告げる。今日という日を境に。 耐えられるわけがなかった。 「水晶蟲の糸の侵食が抑えられん。俺にできるのは、侵食を一時的に止めるだけだ」 「だったら、その間に薬を・・・!!」 「ありますよ」 そう言って現れたのは、アーカーだった。英国紳士のような服ではなく、黒い法衣に着替えている。まるで、ファンタジーに出てくる悪役だ。 「これです」 そう言ってアーカーが持っていたのは、瓶だった。ワイン瓶のようなそれは、とてもじゃないが薬には見えない。 得体の知れない外観だが、その言葉を信じないまま、エディスを死なせるのは絶対にイヤだ。 「よこせ!!」 「お断りします」 あたしは真っ先にアーカーに突っ込んで、奪い取ろうとしたが、ヤツはどんな手品をしたのか、軽々と避けた。まるでアーカー自身が蜃気楼のようにさえ見えた。 「子供の命がかかってるんだよっ!?」 「こちらも、幾百万の命がかかっていますゆえ」 その言葉に、ふっとあたしは我に返る。幾百万、途方もない数字の命。それがあたしを冷静にさせた。 「取引です。率直に申し上げましょう。今、我が都は魔王陛下のご不在により、狂いつつあります」 「狂う・・・?」 率直と言いつつも回りくどい言い様に、あたしは眉をひそめる。 「教えたはずです。我らに、支配と言う概念はない、と」 「?」 意味がわからない。だから、何だって言うのだ。 「・・・我らに、魔王という単語は本来なら存在しないのですよ」 「あ・・・!!」 そうだ、その通りだ。 魔王とは何か、と聞いたら適当(?)な返答が返ってきて、それで変に思ったんだ。 「魔王の代わりは誰もいない。代理者なんて言葉は存在しない。それが、“我々”です」 「そんなっ・・・!!」 何でこの男は、そんな簡単に言えるのだろう。 じゃあ、魔王って何? それ以上に、あたしが何だって言うんだ。 「エディスも、私も、代わりなどいくらでもいるのです。ただ、魔王だけはそうはいかない」 「・・・何でっ!?」 もはや涙目だ。目の前で死にそうな少年が、どうして死ななければならないのか、あたしにはわからない。 アーカーは、世にも冷たい、絶対零度の声色で言い放つ。 「魔王は、循環を司るもの。我らの命の象徴、柱そのもの」 循環、司るもの、象徴、柱。 断片的に耳に入ってくるそれは、どこか幾何学的で、冷淡だ。 「・・・文字通りの、我々の生命を握っている存在です。今、この都は魔王が存在しないから、衰退しているのです」 アーカーの視線が、窓の外に向いた。そこは、生い茂る木々があったが、その内の何本かは枯葉を落としていた。外の陽気は、春そのものだと言うのに。 「いいですか、候補殿。この都は魔王の存在によって支えられてきました。だから、我々は欲したのです。魔王と言う、絶対的な加護を持つ存在を」 「・・・それが、あたし?」 アーカーはうなずく。 「ええ。代々、魔王は強大で巨大な加護を持つ存在でないと、耐え切れない。そういった存在です」 それはつまり、魔王が治める都全てがあたしの肩にかかっていると言う事だ。 ぞっとした。エディスの命も、その中に入っていると思うと、何とも言えない寒気を感じた。 「魔王がいないことにより、この大地は衰えつつあります。そして、そこに住む我々にも影響しています」 言って、アーカーはベルトに引っ掛けておいたナイフを取り出す。食事に使うような、刃の薄いそれで、自分の指を突き刺した。 「っ!?」 見ているだけで痛々しいものだが、それはゆっくりと再生していった。突き刺された傷口は、血が流れたが、煙を噴出して凝固する。 心なしか、アーカーの血は黒っぽくて、かすかに光を放っているような気がする。固まった血は、少しずつ凝縮されて、傷口を隠し、消える。 そして、残った皮膚に傷などなかった。まるで、ビデオを早送りしているみたいだ。 あたしとはまったく違う、その回復量に目を見張ったが、アーカーは不満げだ。 「自己治癒能力の低下、精神の不安定傾向・・・このままほおっておけば、出産能力も衰えていくでしょうね」 数秒とかかった恐るべき回復力は、アーカーにとっては大いなる問題らしい。そして、ここに住む者にとっても。 「エディスは、子供ですから。力の弱いものから、死んでいくのです」 「・・・・・・」 だからか。 だからエディスは――死んでしまうのか。 「お選びください。迷う必要などないでしょう? 彼を助けたいのなら、あなたの選択肢は一つしかありません」 「っ!!」 ぱんっ 気が付けば手が勝手に動いて、鈍い音がした。 アーカーの頬が、赤い。 シャレじゃない。あたしが派手にアーカーを引っぱたいたのだ。 涙が、出そうだった。 あたしの事を魔王候補と呼ぶ男は、あたしにたった一つのことを選べと言う。 他に選びようがない選択肢を、あたしに押し付けようとする。 それが良い事か、悪い事かはあたしにはわからない。 ただ、エディスの命を取引にもちかけられたのが、とても気に入らなかった。 あたしはアーカーに背を向ける。その背中をドロップキックしてやりたい衝動を、必死に抑えた。 「・・・・・・一日、だけ、時間ちょうだい」 決まりきった答え、整頓された舞台、選ぶことしか出来ない役者。 茶番だ、こんなもの。 「・・・・・・・・・ふむ」 それにアーカーは背中越しにでもわかる慇懃さで、一礼をしたようだ。 「ごゆっくり、お考えください」 余計なお世話だ、バカ野郎。 次へ 前へ 戻る |