日曜日の、気持ちの良く晴れた昼時の喫茶店。
朝子はなぜか粟井と共に出かけることになった。あんなことがあったというのに大した度胸だと朝子は素直に感心し、張り倒してやろうかと思った。
粟井には色々と言いたいことがあったので、誘いを受けた。
朝子が粟井に言いたいこと。朝子は死んだ魚のような濁った目で粟井を見つめながら呟く。
「死ねばいいのに……」
ぽつりと、朝子は呟いた。じゃくじゃく、と頼んだストロベリーパフェのバニラアイスといちごゼリーを食いつくし、下の方に溜まったコーンフレークをスプーンでつっつく。
死ねばいいのに。およそ普通の女の子が願うことではない望みを何度も心のうちで繰り返す中で口に出た。
苦痛以上の望み。それが朝子の抱く粟井への純粋なる願いだった。
「焼死、溺死、凍死、圧死、轢死……何でもいいから、君の心臓が今この一瞬で止まって二度と動かなくなればいいのに」
「あっはっは。僕が死んだって、日部さんがあの日部先生の恋愛対象にならないことに変わりはないけど?」
「知りたくもない事を知らされたぼくの心情に対する慰謝料を払えよ」
「いいですよぉ。一生かかってこの身体で返済しましょう。不束者ですがよろしくお願いします、できれば優しくしてね。始めてだから」
「うん、何はともあれ傷ものになった上で死んでくれるかな。そしたら許してあげるよ」
「それはさすがにダメだなー」
粟井は朝子の刺々しい態度に臆さず、にこにこと笑いながら朝子の私服姿を眺めた。
朝子の本日の私服は、カーキーの長めのジャケットコートに、灰色のセーターと掠れた青のジーパン。頭には深緑色の野球帽を被り、下手すれば男と見間違えそうな格好だった。
朝子は粟井に対して特別な感情なんてまったく持ち合わせていなかったため、服のチョイスがおざなりになっている。
「先生のどこがいいんですか。あんな悪人面のどこが」
「赤の他人の君に言う必要なんてないよ」
溶けたアイスを吸い取ってふやふやになったコーンフレークを口に運びながら、朝子は面倒くさそうに言った。
「そこはそれ、ただの好奇心。教えてくれると嬉しいなぁ。僕の憎い恋敵なわけだし」
ホットカフェオレの入ったマグカップを口につけ、粟井は楽しげに聞いた。それに朝子は少し黙り込み、首を傾げる。
「恋敵、ね。じゃあ聞くけど、君はぼくのどこがいいの?」
「色っぽいところかな」
朝子の素朴な疑問に、粟井は即答した。朝子ははあ、とため息混じりにうなずく。
「具体的には?」
「一言で言うと一目惚れ。あれは春先の体育の時間。温暖化の影響か、その日は暑くてね。確か男子は野球、女子は陸上をしていたかな」
くるくると、粟井はマグカップの中身をかき混ぜる。すでに混ざっているはずのカフェオレは、湯気を出しながら渦を描く。
「よーいどん、の合図で走り出す姿がすごくきれいで絵になっていた。それ以降、ずっと目で追いかけていたかな」
粟井はその時の事を思い出したのか、頬をほんのり赤く染める。朝子は自分のことを語られていると言うのにまったく興味がないらしく、ふうんとだけ頷いた。
「そんなものかな」
「そんなものだよ」
粟井は朝子の態度を予想していたのか、軽く笑った。
「だったら陸上部へ行けばいい。走る姿が綺麗な奴はごまんといる」
「ああ、ダメダメ。この胸をときめかせたのは日部さんだけです。具体的に言えば夏の体育の授業の後に蛇口の水を頭から被っていた姿とか、指先についたジャムを舐める仕草とか、ぼんやりと窓の外を見つめる様子とか、すごい好きだ」
実に具体的な粟井のそれに朝子は顔をしかめた。何と言うか、彼の行動から感じてしまうものを端的に言ってしまうと。
「キモいね、君」
「よく言われる。自覚あるだけ可愛いと思わない?」
「思わない。君なんか、全然可愛くない」
「嬉しいな。君には女々しい所なんて一切ない、可愛くない男だと思われていたいから」
朝子は頭を抱えこの男の頭の中身をどうにかできないか唸った。どうしてこちらの言う事を都合よく変換するのだろう。ついでに言えば、誉めてもないのに顔を赤らめて照れないで欲しい。
「これだけは言っておくよ。僕は日部先生と違って、不誠実なことはしない。絶対に、日部さんを裏切ったりしない。それだけは約束するよ」
「…………」
朝子は、真面目な顔した粟井の言葉を黙って聞いた。
「日部先生、調べてみたけど……見かけどおりって言っていいのかな。今も昔も遊んでいるらしいですね」
「知ってるよ」
嫌な話題だ。それを感づかれないために朝子は細長いパフェ用のスプーンで、受け皿を軽く叩いた。
別に意味はない。ただ手持ち無沙汰で、何かしていないと落ち着かない。ただ気を紛らわせたかった。
「小さい頃から知ってる人だもの。……知らないことなんて、ないよ」
「今から五年くらい前に、二股、三股かけていることも?」
これにはさすがの朝子もぎょっとした顔になった。
どうしてそんなことを彼が知っているのか。五年前といえば、朝子も粟井もお互いのことは知らないし、何より自分達がまだ小学生だった頃だ。
「僕の姉さんは、日部先生と同じ大学出身でね。と言ってもゼミで一緒だったのは一年だけ。でも、それ以降も華やかで派手な噂は絶えなかったよ」
粟井は肩をすくめ、姉から聞き及んだであろう旅二郎の女性遍歴を説明する。
「写真とかを撮るサークル内で一人、同じ授業で一人、違う学科に一人……ああ、安心して。僕の姉さんは安全圏だ。手出しはされていないよ」
「…………」
「別に先生を責める気なんてないよ。男の本能だもんね。ただ、本能に忠実に生き急ぐのは、実にみっともないことだけど」
「……何が、言いたいの?」
「いいの? はっきり言っても?」
粟井は楽しげに指を絡めて、聞いてきた。その目は爛々と光り、追い詰めた獣をいたぶるハンターのようだ。
「僕は将来、東大出のエリート官僚になる有望株。対する日部先生は過去に傷持ちの問題児」
「いきなり上昇して、そのあとで一気に暴落する仕手株のマチガイじゃない?」
「……変な茶々はやめてくれないかな。心が痛いんですけど」
「ああ、そう。もっと苦しめ、ぼくは景気を上げることはできないけど、人様の気分を曲げるのは大得意だ」
「日部さんの新たな一面を知って、少し嬉しいのはいいとしてだ。日部先生が、どういう人かもうわかっているんだろ?」
粟井は癖なのか、とんとんとテーブルを叩いた。
「女にだらしないし、軽薄で、不誠実で。ろくなもんじゃないよ。日部さんには相応しくない」
「…………」
「大体、僕に少し後押しされただけで、あんなことを言える人なんだ。自分なりに考えたのかは置いといて、僕を言い訳にして卑怯だよね」
「…………」
「僕なら、あんなことはしない。日部さんを大事にするし、浮気もしない」
「……知ってるよ」
「え?」
「だから、知ってる。旅二郎が女の人とそういう関係にあったなんて、旅二郎がろくでもない男だってこと、ずっと前から知っている」
ちん、と受け皿をスプーンで鳴らしながら朝子は呟いた。
「知ってるんだよ。最初は当然ながら気付かなかった。ま、幼稚園児の頃からの付き合いだし。その時は文字通り親戚のおじさんで、意識なんかしなかったよ」
どうして自分はこんな事を話しているのだろうと頭の隅で思いながら、朝子は続けた。
「おじさんが女の人と遊んでいるのは知っていたよ。言っておくけど変な意味じゃなくて、言葉どおり。一緒にご飯を食べたり、映画を見たりとかね。その辺は偶然見たり、おみやげをもらったりしたから、何となくわかってたんだ」
名前を呼ぶのではなく、幼い子供が無邪気な声で呼ぶように、朝子はあえて旅二郎をおじさんと呼んだ。
花や柑橘の甘い残り香をまとっていた叔父は、今思えば違う世界の住人と認識していた。家族だけど家族ではなく、最も近い存在であって遠い場所にいる。
一言で言うなら、あまり興味はなかった。どうでもいい、と言い換えても構わない。
当時の朝子はたまに顔を見せる叔父より、いつも夜になると必ず帰ってくる血のつながりのない父親の方が近しい存在だった。
「そして中学になる頃、やっとぼくは悟るわけだ。叔父貴はジェントルメンではない、と。ただれた女性関係を謳歌した、軽薄で不誠実でろくでもない男だと知ってしまう」
朝子はふと思い出す。決定的な朝子にとってのターニング・ポイント。
知らない女性と仲良さそうに駅前を歩く二人の姿。腕を絡め、恋人同士と見て相違ない。中学生になった朝子は、その二人の存在を嫌でも認識する。
旅二郎がこちらに気付き、手を振る。朝子は気付かぬ振りをして、早足で去っていく。
背を向けた叔父の顔がどんなものかはわからない。気付かなかったのかと肩透かし食らっているのか、目を丸くしてきょとんとしているのか。
朝子は走った。口元を押さえ、吐き気をこらえ、涙を流しながら走った。
眼球の奥が熱く、喉は鉄棒を飲み込んだかのようだった。自分でも良くわからないけれど、気持ち悪くて泣きたくなった。
別にいつものことじゃないかと自分に言い聞かせる。いつものことだ。叔父が女の人と仲が良いのは。
だが、このこみ上げてくる熱い塊は一体何なのだろう。
旅二郎が今まで女の人と常にああだったのかと思うと、それも複数とあんな関係を保っていると思うと、胸が痛い。
しめつけられる。吐き気がする。目の奥が焼けてしまいそうな、そんな錯覚に囚われる。
「けど、知ってしまったから。もっと知りたいと思った。もっと近づきたいと思った。ぼくは旅二郎のこと、何も知らないと気付いてしまったから」
遠い場所にいる人が、一気に現実の世界に実体化した。
そして、思い知らされた。自分は叔父が、旅二郎が好きなのだと。もっと仲良くなりたいし、理解したい。大声で好きだと伝えたい。そんな欲求があふれ出してくる。
自分の気持ちを理解したら、気分が楽になった。知らない誰かが居場所を知らせるために手を振っているような、迷子を見つけたかのような安心感。
泣いていても仕方がない。泣こうが喚こうが、言葉を伝え行動しなければ事態は進展しない。それくらいはわかる年頃だったせいか、理解が恐ろしく早かった。
朝子は自分の気持ちに苦笑しながら自分の気持ちを整理して、旅二郎に伝えることにした。
自覚した恋心は、朝子が慕情と言う水を与え、すくすくと育ててきた。
「きっかけは、些細。一瞬で掻き消えて、見えなくなってしまうくらい微小なものだった。けど、ぼくはそれで充分だった。一瞬で恋に落ちた。突き落とされた」
落下していく思いは、どこまでも広がった。まるで湖面に石を投げ、広がる波紋のように。静かに穏やかに広がるそれを止めようとは思わなかった。
躊躇なんてなかった。一瞬でも迷えば、見失ってしまうから。そんな恋だったから。
「そして、今もぼくは果てない底に落下中。君はそんなぼくを受け止めきれるのかな?」
揶揄るような口調だ。余裕を取り戻したらしく、朝子は挑むような探るような目線で粟井を見据えた。
それに、粟井はフッ、と笑って。
「受け止める? そんな生易しいことしないよ。そんな恋は叩き割って、作り直す。その方が断然楽だからね」
朝子はああ、と納得したようにうなずく。
「わかるよ。君、道に外れた行為が好きそうだもんね」
「誉め言葉として受け取っておきます。とりあえずは」
傷ついた様子のない粟井に、朝子はまたスプーンで受け皿を軽く叩いて挑むように告げた。
「悪いけど、ぼくの恋は長くて丈夫なんだ。余計な茶々入れてもびくともしない。君が何をしようと、ぼくは君と付き合うことはないよ」
「それは決定事項なのかな?」
粟井が軽く首をかしげて聞くと、朝子は力強くうなずく。
「ああ、そうだよ。砕け散るまで、ぼくは諦めないから」
がたり、と朝子は立ち上がり、千円札をテーブルに投げ置いた。
「じゃあ、僕は砕け散った日部さんを拾い集める役柄で我慢するとしよう」
「…………」
じろり、と粟井は朝子に鋭く睨まれるが怯まなかった。朝子はふん、と鼻を鳴らしてこの煩わしい男に一矢報いるため挑発的に言い放った。
「なるほど。ならばぼくのクリスタルガラス製の心臓が砕け散った暁には、その破片を君の顔面に叩き込んであげるよ」
「期待して待ってます。君にならそんな暴挙も許せそうだ」
どこまでも余裕の粟井に朝子は憎しみ半分苛立ち半分こめた視線を送り、席から立ち去った。
「……やれやれ」
今まで余裕を保ち続けた粟井は、己の先行き見えない恋愛事情にただ肩をすくめた。
人に嫌われ続けそれに慣れていると豪語する男であるが、やはり好意を寄せた相手に嫌われるのはさすがの粘着質な粟井でも傷ついたらしい。
彼の小さなため息は冷め切ったカフェオレが注がれたマグカップに吸い込まれて消え、彼の視線はいつまでも去った朝子の背中を追っていた。
覚悟を決めろ。
天からそんな言葉が降ってきた。きっとこれは心の声なのだろう。いい加減、自分の恋に決着をつけろという宣託だ。
粟井と話して良くわかった。自分はどうしようもないくらい旅二郎が好きだし、それを諦めるつもりはない。
ただ今の状況を終わらせる覚悟がなかった。だからこんなことになったのだろう。
喫茶店から出て、朝子はジャケットコートのポケットから携帯電話を取り出す。高校の入学祝いでもらったものだ。
ちゃりん、とビーズでできた金魚のストラップが揺れる。旅二郎からもらったものだ。誕生日でも何でもない文化祭の日に買ってもらったもので、特に意味もなく受け取ったのだ。
それをぎゅっと握り締める。そして、携帯のアドレス帳の中から自分と同じ苗字を探し、その電話番号を選択して通話ボタンを押す。
数コールして、それはつながった。
『もしもし? 朝子?』
「うん、ぼくだよ」
旅二郎の声はどこかぼんやりとしていた。今の今まで眠っていたな、と朝子は苦笑する。
「ねえ、今さ家にいるんだよね。ちょっと出てきてよ、中央公園まで」
『何か用か? あー、頭働かねえ……ちょっと待て』
「迎えに行こうか?」
『いや、やめて。それはやめて。変な噂たつ』
「いいじゃない。誤解される仲なわけだし」
『お前な』
「とにかく早く来いよ。……伝えたいことがあるから」
『お、おお』
ピッ、とそこで朝子は通話を終了した。
待ち合わせ場所はここから五分もかからない公園にした。朝子は旅二郎がどこに住んでいるか知っていたから、彼の住居から待ち合わせ場所までそれほど時間はかからないだろうと推測した。
携帯をポケットの中にほおりこみ、朝子はつぶやく。
「決戦だ」
一体何の戦いなのかはわからないが、朝子は軽い足取りで公園に向かった。
待つのは苦ではない。もう何度となく、ずっと待ち続けた。正確に言えば追い続けた。その心境はさながら氷河の上でオーロラを映すことが仕事の忍耐強い写真家のようだ。
朝子はベンチに座って空を仰ぐ。雲ひとつない晴天。空の色は濃く、空気は少し張り詰めていた。北風が頬を撫で、もうじき冬がくると知らせるように吹いた。
ぼーっとしていると、やがてこちらに近づいてくる安っぽいファーの付いたジャケットを着込んだ男が近づいてきた。旅二郎だ。
「待ったか」
「寝癖ついてる」
くすりと笑われながら指差された先には、ぴょこんと跳ねた髪があった。旅二郎は慌ててそれを撫で付けるが、なかなか直らない。
「寝てたんでしょ」
「悪いか」
「寝巻き、Tシャツは寒いからジャージでしょ。合ってる?」
「……合ってるよ」
何で自分の寝巻き姿を見たことないくせにわかるんだと旅二郎は声に出さず、目線で問いかけた。それに気付いた朝子はくすくすと笑う。
「旅二郎のやることなんてお見通しさ。この前、女子寮の冷蔵庫の裏側に焼酎と日本酒隠しただろ。あれ、先輩方にいくらか飲まれてたよ」
「おいコラ! 見てたんなら止めろよ俺の千羽鶴と麦謳歌!!」
「千羽鶴は熱燗にしておいしくいただきました。甘口で意外とすっきり喉越し爽やか、スルメとキャベツ味噌炒めと一緒だとなおおいしい」
「飲んだのかこの未成年! くそっ、今度はもうちょっと頭使ったところ隠さんにゃ……」
ぶつぶつと真剣な顔をして次の隠し場所を模索する旅二郎。少し話がずれたなと、朝子は頭をかいた。
「旅二郎。ぼくが告白されたのは知ってるね」
「知ってるよ」
もちろん知っている。そして、健全な付き合いを薦めたのも旅二郎である。
「あんなことを言うのなら。覚悟して欲しいんだ」
「……何を」
わずかな沈黙が間にあった。朝子はその間に気付かないふりをして、続ける。
「ねえ。いたちごっこは疲れたよ、旅二郎。仕留めるなら仕留めて。息の根止めて、もう二度と目覚めないように殺しつくしてほしいんだ」
何とも物騒な物言いだ。しかし、実に朝子らしいと苦笑を隠せない言い方でもある。
いつもいつも直球な彼女を、旅二郎は嫌いではない。姪っ子として可愛がりたいという思いはある。
しかし、この思いを恋愛感情に直結させてはならない。旅二郎の持つ、わずかな良心がそれを押しとどめているのだ。
「別に隠さなくてもいいんだよ。旅二郎が、どんな桃色の大学生活を送ったかなんて知らない。色んな女の人に別れ話を持ち出して頭からカフェオレをぶっかけられたり、本気になった年上の女性教授と結婚にこぎつけて、失敗したこととかくらいしか知らないけど」
「っ、お前……っ!?」
旅二郎は朝子の告げた内容に絶句する。それは旅二郎の大学時代のパンドラの箱。触れてはならない思い出。忘れたくて仕方がなかった過去の傷だ。
旅二郎にはかつて結婚を約束した女性がいたけれど、結ばれることはなかった。
そう。ただそれだけの傷。旅二郎が何かのスイッチを押したように、変わった原因でもある。
「あれを機に、旅二郎は真面目になったよね。ぼくは、ずっとそれを見てた。最初は意識しなかったよ。でも、やっぱりおじさんは男の人って途中で気付いちゃった」
朝子が好きになったのは、軽薄で不誠実でろくでもない男なんかじゃない。
そんな男はいらない。朝子が求めたのは、年上の女性と一緒に本当に幸せそうに微笑んだ旅二郎だ。本当に大好きな人と連れ添って歩いていた旅二郎を好きになった。
その幸せそうな彼の微笑みは永遠に自分に向けられないと知って、涙がこみ上げてきた。
その後、結婚の約束が破綻してしまって、幸せそうな微笑みは消えてしまったけど。その微笑の消えた顔を覗き込んで、どんな言葉を伝えるか悩んだ朝子に向かって大丈夫だと苦笑いしてくれたけど。
意地を張って、虚勢を張って、大丈夫だと告げる叔父の姿がどうしようもなく痛々しくて、悲しくて、何より愛しくて。
朝子の心には、すでに叔父に対する恋心がどうしようもないくらに育ってしまっていたから。
「頑張ってたおじさんの姿を見て、本気で好きになって。言葉で好きだって伝えて、行動で示して。最初から、歯止めなんて効かないんだ」
今まで気付かなかった分だけ、思いは広がっていく。
どうすれば旅二郎の心に残れるのか、どうすれば自分を見つめてくれるのか、どうすればこの想いを伝えることができるのか。
ただ、胸の中には声にならない言葉であふれ出して。その傷ついた心を癒したくて。
「嫌われるのはイヤだ。好きにならなくてもいいって思ってた、だけど止まらないんだ。好きなんだ、好きなんだ、好きなんだよ」
自分のことを姪として見ようとしていた。それくらいわかっている。
けれど、家族としての愛情では我慢できなくて。
女として、旅二郎の心に残りたくて。
好きだという声が、想いが、重力に惹かれるかのように深く深く落ちていく。
「本当に……どうしようもない姪っ子だな。俺のどこがいいんだよ」
「いつまでもいつまでも、ふられたことを忘れられずに引きずっている女々しい所かな。無理やり組み敷いてかどわかしてやりたくなるよ」
「頼むからもうちょっと慎みを持ってください! 真顔で何を言ってんだ!」
何やら不穏な発言をする姪に、旅二郎は半泣きしつつつっこんだ。この怖い顔を後にも先にも泣かせられるのは朝子だけだ。
「……上っ面だけじゃ、だめだもん。必死になってがむしゃらになって、バカでもいいから、行動しなくちゃ」
一歩。朝子は旅二郎に近づいた。まったく手の届かない世界の住人に向かって。決してこちらを振り向かないと信じていた人に向かって。
「欲しいものは空から降ってこないんだよって、教えてくれたのは旅二郎だ」
結婚が破綻して、それでも必死にがむしゃらに勉強して今の地位にいる事を朝子は知っている。ずっと側で見ていたから。
「お前」
旅二郎は朝子を見た。意志の強い、頑固な姪っ子。ずっと傍で観察していた彼女が、いつもより大人びて見えた。
「怖くないのか? 俺が、それを答えたら、ほら、何て言うか……終わるぞ、色々」
それを何と言って良いのか、旅二郎はうまく言えなかった。
ただ、朝子と旅二郎、叔父と姪っ子、寮住まいの学生とその管理人、高校生と教師、そんな様々な関係が終わってしまう。今のままではいられなくなる。変わってしまう。
朝子は、そんな変化が怖くないのだろうか。時間の経過と共に去ってゆく、暖かな時間が消えるのが怖くないのか。
今のままではいられない。子供が大人に育っていくように、変わっていくものがある。
旅二郎が本気で好きだった人と、結婚できなかったように。旅二郎は怖い。変わっていくことが恐ろしい。
だが朝子はそれが怖くないのだろうか。
「……そうだね。それは、ぼくも思ったよ」
朝子はあっさりと認めた。その瞳に恐怖はない。あるのは―――
「今の関係も、もちろん好きだよ。旅二郎は女子寮の寮監で、こっそり隠している秘蔵物を盗んで怒られたり。怪我をして保健室で旅二郎に手当てしてもらったり。父さんと母さんと、旅二郎とぼくの四人で外食をしたり。でも、それは当たり前だけど、いつか終わるかもしれないんだ」
強い意思の光。朝子の瞳の奥には、燃えるような強さがあった。
旅二郎はそれに引き込まれるような錯覚を覚える。自分の姪っ子はこんなにも強い女の子だったのか。
「永遠なんて、あるわけないよ。日は暮れて夜になるみたいに、いつかきっと終わりが来る。だから、ぼくは必死なんだ」
朝子は野球帽を取って、不敵な笑みを浮かべる。まるで、楽しくて仕方がないというような笑顔。太陽のような笑顔だ。
「この手で大切な人と明日を歩めるか、いつもいつも死に物狂いなんだ。今、不安に思っている時間なんていらない」
野球帽を弄びながら、朝子は旅二郎を見据える。その瞳はじっと、旅二郎の三白眼を捕らえて放さない。
「ねえ、旅二郎。ぼくの告白、聞いてくれる?」
拒否権なんてない。ただ、聞いただけだ。答えなんて望んでいない。
きっぱりとした口調で、朝子は告白する。想いを告げる。
「旅二郎、愛してるよ」
言葉に詰まる様子もなく、どこまでもストレートに朝子は言った。
「旅二郎が望むなら、世界を敵に回したって構わない。あなたの横こそが、ぼくだけのエリュシオンだ」
盛大な愛の告白。飾り気もない、豪速球な告白。実に朝子らしいと思う。
柄にもなく、旅二郎の心臓が跳ねた。確かに彼は無感動な一面がある、流し上手な大人なのだが直球にこうまで告白されると照れる。
いや、何度も照れたのだ。朝子のアプローチには困らされた。嬉しいか嬉しくないかと聞かれれば、やはり嬉しい。
しかし、頭の隅で怯える自分がいる。また、自分を置いてどこかへ消えてしまうのではないかという不安。
けれど朝子の告白はそんな不安すら消し飛ばす勢いだ。
旅二郎は息をつく。ここまで熱烈な告白をされては、答えないわけにはいかなかった。
「本っ当に格好良いな、お前は。何食ったらンなセリフが似合うんだ」
「強くなろうと努力しただけだよ。旅二郎に気に入られるようにね」
どこまでも口が減らない姪っ子だ。旅二郎は苦笑しながら、朝子の顎をくいっと片手を使って持ち上げる。
いわゆる、キスをするような仕草だった。
「……やめてくれよ」
旅二郎は朝子に低く甘い声で小さく囁く。大学時代に培ったタラシの技術である。
「それ以上言ったら、まじ口塞ぐぞ」
大抵、こう言うと相手の女性は顔を真っ赤にしていわゆる骨抜き状態になるはず。しかし、旅二郎の姪は予想以上の反応を示した。
「上等だ。今すぐにでもかかってこい。まな板の鯉状態のぼくは今すぐにでも食べられる準備はできている!! カルパッチョでも刺身でも煮物でも、ヘイカモン!」
嬉々として早く早くと、まるで今から散歩に行こうとする犬のような反応だ。もし朝子に犬の尻尾があったなら、その尻尾はぶんぶんと上下左右、方向を問わずに勢い良く揺れていたことだろう。
旅二郎はその反応を見て、「はああああぁ……」と大きなため息をつく。
「……やっぱやめ」
「なにゆえ!?」
「恥じらい持て。萎える」
ショックを受けた朝子はおそるおそる、といった様子で旅二郎の顔を覗き込もうとした。
「旅二郎、まさか、その年でイ」
「心が萎えるんだ。心が」
何やら花の女子高生あらざる単語が聞こえかけたので、即座に反論する。まったくこれだからと内心で毒づく。
しかし、考えてみれば自分は常に朝子に押され気味だと旅二郎は思い至った。少し、彼女に反撃をしよう。そう思い身をかがめる。
「……ったく」
ちゅっ、と旅二郎はよける暇も与えずに、朝子の頬を口付けた。柔らかい感触に、朝子の動きが凍りつく。
「ッ!!!!?」
「お前に主導権握られっぱなしは性に合わねえからな。これでおあいこだ」
朝子は何か顔を赤くしたり青くしたり、しばしぼおっとしていたが、やがて糸が切れたように震えだした。
「う」
「う?」
「うえええええええっ!?」
「うおっ!?」
何かが朝子の逆鱗に触れたのか、朝子は奇声を上げながら旅二郎に襲い掛かった。
「何で怒んだっ!? ワケわからん反応はやめろ! 珍動物係歴は長いが、まだ扱いきれてねえんだよ!!」
「旅二郎のくせに生意気っ! 不意打ちなんて卑怯すぎるよ何だよ何だよ何かむかつく!!」
「何だそれは! アレか!? お前もしかして、攻めるのは好きだけど、攻められるのはダメなタイプか!!?」
「何でそんな専門用語を!? 旅二郎……まさか薔薇世界にまで足を踏み入れたのかっ、許せない! むがー!!」
朝子は旅二郎に向かって、飛び蹴りを繰り出す。しかし、意外と反射神経がいいのか、あっさりと避けられる。
「うわっ……!」
「よけんなバカー!」
朝子は憤慨し、旅二郎を殴りかかろうと腕を振り下ろす。本当は怒ってなんかいない。動揺しているだけ。相手の意外な挙動に、心臓が破裂してしまいそうなだけだ。
ただ、自分が頬にされたことが予想以上に嬉しくて、それが負けた気がするのを認めたくなくて、ただ暴力で誤魔化しているだけ。
今はただ、憎まれ口を叩いて、その背中に乗っかって、じゃれあう仲でいて欲しい。
そうでもしないと、自分の心臓が持たないと朝子はそんな自分診断をして、旅二郎を追い掛け回した。
大好きな人が恋人になるのはいいけれど、その過程で自分の心臓がどこまで保てるのか。そして、あの粟井とかいう男をどうするか。
朝子の恋の道のりは、凹凸面が激しい。それは間違いないだろう。
もっとも、だからと言って諦めるようなことはしないのだけれど。
BACK
TOP