ぼくの初恋は、結構面倒くさい。
 ついでに現在進行形だ。
 その相手は血のつながりのない三親等。
 ありていに言えば、叔父さんだ。
 でも、何とかなるだろうと思った。
 なぜなら、何とかなりそうな気がしたからだ。
 特にこれといった根拠はないけど。


 愛する人を落とすため、今日も日部 朝子(ひべ あさこ)は熱心に研究をしていた。
 ちなみにこの“落とす”とは恋に落ちるとか、気になるあの人を虜にしよういう意味で、別に物理的な意味での落とし穴の効果的な掘り方の研究はしていないので、あしからず。
「ふぅむ、最近の下着はすごいなぁ。見て見て、これ。ほとんどヒモだよ、ヒモ」
 指差した女性下着は、細い紐を何本も編みこんでできた、とにかく男のエッロい妄想たっぷりと入り込んだブラジャーだった。 
 はっきり言おう。モデルの女性の肌が透けて見える。
 というよりもすでに手遅れ、隠すつもりもないだろうとばかりにモロ見えだ。
 もう十一月になるというのに、よくやるよねと朝子はしみじみと感心した。
「あ、こっちもエロい。黒の女王様下着だ、革素材かな」
 右ページ丸々占領しているのは、黒いリボンで結ばれた革素材のコルセットを着た女性だ。
 むっちりとした胸の谷間、そして肉感的な足は黒レースのガーダーベルトでさらに艶めかしい。
 特に目を引いたのは、挑むような、誘うような目だ。
 女の朝子から見てもぞくりとするものがある。
 下着の趣味はかなり偏りのある雑誌だが、モデルは良い人材を使っているようだ。プロの目をしている。
「ねえねえ、とりあえず色は黒と白と赤とピンク。どれがいいかな。どれが一番欲情する?」
 朝子はお隣に座っている彼に軽い口調で問いただす。
 ここは学校のカウンセリング用の相談室であり、保健室でもある部屋だ。独特のアルコール臭は、この部屋の特権でもある。
 学校の教員が使うような、プラスチック製のデスクのすぐ側。ふかふかの背もたれ付き安楽椅子に寄りかかって、雑誌をアイマスク代わり一人の教師。この教師に朝子は問いかけた。
 その姿は眠っているようにしか見えない。だが、それはあくまで眠っているように見える、だ。朝子はすでにタヌキ寝入りなのは見切っていた。なので彼はとうとう観念したらしく、顔にかぶせた週刊雑誌を取り払った。
 雑誌を取っり払って出てきたのは、中高年一歩前くらいの年齢の悪人面した男の顔だった。
 異様に目つきが悪い三白眼。それが何より特徴的で目を引く。率直に言うと人を二、三人殺してそうな、そんな面構えだった。
 そして体育教師が着るような青いジャージを着込み、その上になぜか汚れ一つない新品らしい白衣を着ている。
 歯に衣を着せぬ言い方をすると、その面構えだけはどこからどう見てもチンピラそのものだが、白衣を着ているせいでなんともアンバランスである。
 だが、この男は夏になると花柄や龍紋などの和装模様の派手なTシャツを着た上で、さらにサングラスを着用し、校舎を出歩くのを朝子は見た。あれはどう見てもヤのつく危ない自営業者だと、校内で噂されている事を彼は知っているのだろうか。
 彼は残念なことに異常なまでに白衣が似合わない。悲しいほどに。
 しかし、くたびれたジャージのせいで何とか緩和されている気がしないでもない。もっとも、一番致命的である胡散臭い印象は拭いきれていないのだが。
 チンピラ風のガラの悪そうな男は面倒臭そうに、そしてどこか疲れたように朝子に目を向けた。
 男は朝子の持っているそれを見て、深い大きなため息をつく。まるで売り上げに伸び悩む電気販売店の店員みたいなため息だ。
 “気になるあの人を悩殺! 恋する乙女のランジェリー・コレクション”。そう頭悪そうに銘打たれた雑誌。それが朝子の研究資料だった。
 彼は現代社会の品性の低下を大いに嘆いた。そして、朝子に声をかける。
「……朝子、お前ねぇ。親戚のおじちゃん相手にそういうこと聞くなよ」
「大丈夫。ぼくはね、そのおじちゃんの旅二郎と一線を越えたいだけだから、心配要らないよ」
 どこか心配要らないのだろうか。旅二郎と呼ばれた男はやれやれと肩を落とす。
 学校の相談室兼保健室で眠りこけていた彼の名は、日部 旅二郎(ひべ りょうじろう)。
 信じられないかもしれないが、この学校の養護教諭にしてカウンセラー。そして女子寮の寮監という甘ったるくも、その実はかったるいことこの上ないお題目を背負っている苦労人。
 さらに付け加えると、日部 朝子の書類上の父親の実弟。つまり彼は、朝子の叔父さんであり、想い人である。


 お昼休み。朝子は寮暮らしをしている、いわゆる同じ釜の飯を食す友人と昼食を取った。屋上が好きなのでこの三人は天気のいい日のお昼休みは、大抵屋上で昼食を取ることになる。
「って言うかさ朝子。あんた、あんなくたびれた三十代のどこがいいの?」
 寮に住む友人の一人、子烏 渡里(こがらす わたり)は足を組んで、油断するとスカートからパンツ見えそうな格好で地べたに座って問いかけた。
 朝子はさすがにむっとした口調で答えた。
「旅二郎はくたびれてないよ。どっちかというと、飲んだくれてる」
「あははっ、朝子ちゃん。それはうまいねぇ」
 隣でパックジュースをすすっていた桜坂 志紀(さくらざか しき)は無邪気に笑った。
 彼女は家が近いのに、寮生活を味わいたいという理由から寮に住むというちょっとした不思議ちゃんだ。ゆえに朝子の変な発言も難なく受け入れられる猛者でもある。
「んなことよりさ、マジでどこがいいのよ、あのチンピラ予備軍」
「失敬な。せめてギャンブル中毒者一歩手前と呼んでよ」
「あんま変わらないね」
 朝子の微妙なるフォローに志紀は突っ込んだ。
 このメンバーでは普段ボケ役は志紀か朝子の役目だが、いざという時に一番鋭く容赦なくつっこむのは意外にも天然の志紀だったりする。
「ね、朝子ちゃん。日部先生のどこが好きなの?」
「かわいい所」
 志紀の率直な質問に、朝子は即答した。
 かわいい。可愛い。
 よりにもよってかわいいと言ったか、この娘。さすがに志紀もこれには押し黙った。
 朝子の好きな人である、日部 旅二郎。顔は怖いが、根は優しい。女子寮の寮監であり、意外に子供好き。そして、夏休みの寮居残り組にアイスを進呈する世話焼きな人間だ。
 いい人だ。いい教師だ。それは認めよう。
 だが、あの凶悪な面構えをかわいいといえる人間はどれほどいるものか。怪獣映画に出てくる怪獣をカッコいいと思えても、かわいいとは思えないのと同じだ。
「日部センセが可愛いって……大丈夫、朝子? あんた、ボケるには早いわよ? それとも視神経がヤバいの?」
 渡里は朝子の顔を覗き込みながら、心底心配するように言ってくる。
 朝子はそうかなぁ、と上を向いて。
「うーん……他にもいっぱい好きなところはあるけど……やっぱかわいいから、好き」
「どこがかわいいの?」
 日部 旅二郎はあんな外見――年代物のくたびれた青ジャージと新品の白衣という謎コンボ――をしているが、この祝海高校の養護教諭だ。早い話、保健室の先生である。
 男子生徒が憧れるような、脚線美の美しい黒スト常備の“い・け・な・い”が枕詞についてくる女郎蜘蛛のような保健室の先生ではない。
 その証拠に保健室に入る前は「この扉をくぐるものは、“保健室の先生”に対する全ての望みを捨てよ」と唱えるという実に失礼なジンクスがある。
 彼は医師としての資格はなく、保健や性教育だの授業をする。だが、ここは高等教育を施す高等学校。生徒はすでに子供の作り方を知っているし、その大半が己の行動に責任が取れるとみなされた半人前の大人だ。
 知っている事を繰り返すこともないため保健の授業はほぼないに等しく、インフルエンザに注意しろという名目の掲示物を作ったり、性病の恐ろしさを教え込むために専用のDVDを見せたり、具合の悪い人をベッドに寝かせたりするのが主な仕事だ。
 あの柄の悪そうな外見とは裏腹に臨床心理士、つまりカウンセラーの免許も持っていて、色々と生徒の精神的負担を取り除くという面倒見の良い一面もある。
 あの学校でもそこそこの信頼と人気があって面倒見がよく顔の怖い保健室の先生がどれほどかわいいのかを、なぜかこの朝子という少女は知っていた。
「ああ見えて甘いもの好きでケーキ屋さんを見ては足を止める所とか、コーヒーはブラックで飲めないくせに無理やり飲もうとしてむせて涙目になる所とか。機械類の扱いが下手くそで、プリンターが紙詰まり起こしたら生徒に助けを求める所とか。あと地元の野球チームのファンでさ、試合に勝つと口笛吹いて喜んだりするのは本当にかわいいよかわいいんだかわいいなぁ、ああこのかわいさがわからない渡里を本当にどうしてくれようか」
 朝子は真顔でつらつらと旅二郎の好きな特徴を挙げ始め、徐々に顔を近づけながら渡里に詰め寄った。その無表情が怖い。
「……すいません、あたしが悪ぅございました」
「わかればよろしい。人の好みにケチをつけると、ロクなことにならない」
「ジジくさい」
「殴るよ、渡里。顔面を叩き割って、頭蓋骨を変形させた挙句に脳みそを啜ってあげようか?」
 女子高生のセリフじゃなーい!! と渡里は叫ぶ。確かに青春真っ盛りな女子高生のセリフではない。恋する乙女のセリフでもない。
 渡里は余計な事を言いすぎるんだよ、と志紀が的をど真ん中射った発言をした途端に渡里は大人しくなった。人間、図星を指されると黙り込む。まさにその通りだと朝子は思った。
「でも何でいきなり旅二郎話に花を咲かせるの? まさか渡里もぼくと同じ叔父属性萌えに目覚めたの?」
「そんな恐ろしいものに目覚めてたまるか。逆に永眠したくなるわ」
「じゃ、何で?」
「別に。気になったのよ。あんたと日部センセは親戚だしね」
 朝子と旅二郎は叔父と姪の関係にある。それは学校でも有名だった。
 何と言っても苗字が同じだ。なので知っている人は知っている。朝子と旅二郎が親戚同士だということに。
 けれど、朝子と旅二郎はまったく似ても似つかない。
 朝子は猫っ毛のようなふわふわとした焦げ茶色の髪の毛だし、旅二郎は黒くてがっしりした髪質をしている。
 目の造りにに関しても朝子は二重で、睫毛そのものの量は多いが短い。顔の輪郭は卵形の弧を描き、ふんわりとした印象を持つどこか浮世離れした印象のする少女である。美少女とは言わないが、それなりにもてるのだ。
 対して旅二郎の場合。睫毛は意外にも長く量もあるのだが、虹彩の細い三白眼ゆえに凶悪そうな面構えを持つ。
 犯罪生物学の創者、チェーザレ・ロンブローゾに言わせれば生来的犯罪人説の立派な例題として挙げられそうな、絵に描いたような悪人面であった。
 現代日本人よりも頭一つ突き出た高身長に柳のような痩躯、背骨を丸めた猫背。
 三歳か四歳くらいの子供と目が合って逃げられたことがあるという、実に悲しすぎる経歴を持つ男だ。
 朝子はそれに比べて本当に一般的としか言いようのない、焦げ茶の地毛が少し珍しい高校生だ。
 そんな親戚同士である二人が並んで歩くと、「アレは一体何? 援助交際の現場ですか?」と手痛い視線を喰らうことが多々とある。
 朝子自身、自分の外見が旅二郎と似ているとは思えない。似ていて欲しくない。好きな人とはいえ、自分はあんな悪党面をしていると信じたくない。
「何でそこまで自分の叔父さんを追いかけるの? 血のつながりはないけど、それでもあんたの叔父さんなんでしょ?」
 渡里にとっては素朴な疑問なのだろう。軽い口調で聞いてくる。
 彼女の言うとおり、朝子と旅二郎の間には血のつながりはない。
 なぜなら朝子は父親を物心つく前に失っており、現在の父親は母の再婚相手だ。当時朝子は五歳で人見知りをしなかったので、特に問題はなかった。
 そして、旅二郎は朝子の義父、隆一郎の弟。叔父に当たる存在だ。十年ほど前からちょくちょくと遊び相手になったりして、何をどう間違ったのか知らないが今に至っている。
「うん、出会ったのは十年前ね。歳は十六だったかな。若くてぴちぴちして、生きが良さそうだった」
「センセは魚か」
「うん、飛びっきりの大物だった」
 うふふふふふ、と胡散臭い笑みを浮かべ、朝子は悦に浸る。はっきり言って怖い。
 人を見かけで判断するな、と言うが朝子と旅二郎の学生と養護教諭の親戚同士は、まさにその典型例だろう。
 旅二郎の顔は確かに怖いが、人間味にあふれた人格者である。ギャンブル中毒一歩手前であることを差し引いても、生徒の人気も教師の評価も高い。
 対して朝子は外見だけは普通なのだが、旅二郎が関わることに対する行動は異常である。
 それは恋をしているを通り越し、執着していると言ってもいい。ストーカーと罵倒され、訴えられても仕方ないほどだ。
 その外見は浮世離れしていると例えたが、実際には常識から少し浮いているのが正しい。
 だが、世間の目はそれを許している。と言うのも、親戚同士のスキンシップとして片付けられているのが一番の理由だ。
 その事実全てを知っている志紀と渡里は、呆れるしかない。見守るしかない。うまくいくとは到底思えないが、それでも朝子は容赦なく棘の道をかき分けて進んでいくのだ。
「朝子は日部先生のこと、大好きなんだね」
 志紀の何気ない一言に、朝子は照れて否定するなどという可愛らしい真似はしなかった。
 購買で買った二個目のパンを開けて、淡々と告げる。別に重要でもない、当たり前の事を当たり前に告げるように言った。
「うん、大好きだよ」
 別におかしいことなど何もないのに、世間話をするかのように告げたそれはどこか薄ら寒さを覚える一言だ。
 恋愛に純情すぎ、のめりこむ女ほど恐ろしいものはない。朝子の友人二人は、学生でありながらそれを深く思い知らされた。


「というわけで、旅二郎よ。厳選なる脳内会議の結果、やはりここは寒いけどヒモパンで攻めるのが最良の選択肢だと決定されたんだけど、どう思う?」
「とっとと寝るという選択肢を推奨する。風邪引くだろ、このバカ」
 就寝時間を過ぎた十一時。旅二郎は寮監の務めを果たすため、寮の見回りをしていた所をだぼっとしたパジャマを着た姪っ子と遭遇し、上記のようなふざけたセリフを投げつけられた。
 場所は電気のついたリビングルーム。女子寮、唯一のテレビがある場所だ。いつもはにぎやかであるが、今は時間が時間なのでしんとしている。給湯室と同化した構造で、朝子はカウンターとなっている場所から姿を見せたていた。
「まだ眠くないよ」
「ホットミルクでも作れよ。ガキにはそれで充分だ」
 朝子の反論に、旅二郎は涼しい顔で受け流す。大人の余裕だ。
 それに朝子は負けじと身をくねらせて、上目遣いをしつつできる限りの色っぽい声を出した。
「一人はサミしくて眠れないの。おじさま、一緒にベッドを暖めて?」
「下世話すぎるな。どこで覚えたんだ、そんな寒いセリフ」
 朝子の精一杯の誘惑にも旅二郎は冷静だった。何でそんなに冷静なのか朝子は首をかしげた。
「……おかしいな。旅二郎は女子高生萌えだから寮監をしてるんじゃなかったっけ?」
 こうまで誘っているのに、旅二郎は冷淡な反応しか示さない。なぜだ。今世紀最大の謎だと、朝子は首をひねる。
「お前は俺をナンだと思ってんだ」
 別に女子寮の寮監をしているのはただの人手不足だ。押し付けられただけだ。決して若い女の子を狙って変態的思考を働かせているのではない。
 そして、朝子は旅二郎のつっこみに真顔で答える。
「血のつながらない、結婚したい三親等」
 即答しましたよ、この子。
 旅二郎はここにはいない兄と義姉に想いをはせる。
 悪い子ではない、決して悪い子ではないのだが。でも何か色々間違って朝子は成長しています。どうすればいいでしょう。
 旅二郎は心の中に住む兄に問いかけたが、返事はない。屍のように答えない。
 仕方ないので、倫理観と道徳と常識から説得することにした。
「なあ、朝子。お前な、法律くらい知ってるだろ?」
「知ってるよ。旅二郎は知ってる? 養子縁組はね、未成年は自分からやったらいけないんだ。保護者の認証がいるんだよ」
 そりゃそうだろう、と旅二郎は思う。未成年とは保護されるべき対象だ。無論、目の前にいる朝子もその一人だと思っている。
「それから叔父さんとは結婚できないことくらいは知ってるよ。でもさ、血のつながりがない場合はどうなるのかな」
「……」
 旅二郎は黙り込んだ。多分、結婚できるだろうと思う。法律に疎い方だがそれくらいは何となく程度に旅二郎も察している。
 そして、これはここ数年、今から三年ほど前から繰り返されている問答でもある。結婚するだの、好きだのという問答は。
 始まりはまだ朝子が中学校に通っていた頃の話だ。ある日、学校へ行こうとした朝子を送ってやろうかと、旅二郎は親切心を出して、車に乗せた。
 朝子が助手席に座ったのを確認し、自分も運転席に乗り込んだ。
 そして、朝子は言った。
「ぼく、叔父さんが好きだよ」
 短く、詩でも歌うかのように。
 旅二郎は最初空耳かと思ったが、それをきっかけに怒涛の愛の告白騒ぎが始まった。それからは気が気でない。兄と義姉に知られたら、どうなるか。
 幸い二人にばれていないのがせめてもの救いだった。まるで奇跡のような確立で隠し通している。旅二郎はそれだけは信じてもいない神に感謝をしている。
 この告白騒動はもしかしなくとも朝子の現在進行形の中二病なのか。多感なる少年に多い症状だったが、朝子のような少女にも発症するものなのだろうか。
「血のつながりがない場合、大丈夫なんだよね。だから、ぼくは旅二郎を好きになっても構わない」
「……法律上はな。でも、俺は」
「うん。今はそれでいいんだよ。いつか旅二郎がぼくの方に振り向けば、それでいいんだ」
 達観した物言いは本当に十代の少女のものなのだろうか。
 旅二郎は今さらながら、姪っ子の賢明さに末恐ろしくなる。何で自分なんかが良いのか、さっぱりわからない。
 もっとも、それを聞いたところで、朝子は答えないだろう。そういう性格なのだ。
「まあ、重苦しい話は置いといて。旅二郎もミルク飲む?」
「日部先生と呼べ」
「いや。他のみんなと同じ呼び方なんて、つまらないよ」
「いやそうじゃなくて、示しがつかないだろ。教師なんだし」
「えー? 旅二郎ほど教職の似合わない人間も珍しいけどなぁ」
 カウンセリングはそれなりにうまいけどね、と付け加えると朝子は冷蔵庫を開け牛乳を取り出す。
 この給湯室にある冷蔵庫の中身は、寮監やら食堂のオバちゃんやら、家からの贈り物などの公共品で誰でも飲み食いができる。
 そして紙コップを取ろうと、食器棚の上に腕を伸ばすが、ぎりぎり届かない。
「何やってんだか」
 旅二郎は呆れながら、朝子に覆いかぶさるように腕を伸ばした。紙コップは易々と旅二郎の手に落ちる。
 ほらよ、と朝子に渡す。それから電子レンジが使えるかどうか確認するため、朝子から離れてスイッチが入っているか確かめる。
「……うふ、うふふふ、うふふふふふうふふ……」
「怖ぇよ。何だ、その笑いは」
 突然不気味に笑い出した朝子に、旅二郎は呆れた視線と一言を投げかけた。
 しかし、朝子の笑いは止まらない。
「……旅二郎がぼくに覆いかぶさった。ああ、何かすごい幸せ。今なら財布を盗まれても、笑顔になれそうだ……ありがとう神様、愛してる。旅二郎の次の次の次くらいに」
「神様、位が低いなぁ。それに本気でお手軽な幸せだな……」
 旅二郎は呆れた。別に朝子を喜ばせるだけで紙コップを取ったわけではない。自分もホットミルクが飲みたくなったから手伝った。それだけだ。
 しかし朝子にとっては天からの恵みに等しいらしく、恍惚として微笑んでいる。はっきり言って不気味だ。
 旅二郎は朝子に背を向け、牛乳の入った紙コップを電子レンジの中にほおり込んだ。そして加熱ボタンを押し、時間を設定する。
「旅二郎」
「ん?」
 名前を呼ばれ、旅二郎は返事だけをした。
 今思えば、朝子が旅二郎を叔父さんと呼んでいたのは、三年前の告白以前のことだ。好きだと告白されてからはずっと名前を呼ばれている。
 朝子に名前を呼ばれるのは慣れた。しかしそれがどこか寂しいと感じている自分がいることに、旅二郎は苦笑を隠せない。姪が子供から女になったことが寂しいのだ。
 旅二郎はその苦い笑みを隠すため、朝子に背を向けて返事だけをする。
「大好き」
 そう語る朝子の顔がどんなものだったのか。
 笑っているのか、泣いているのか。背を向けている旅二郎には、そんな簡単なことすらわからない。
 いつもと変わらない一言。旅二郎はそれにやはり背を向けて、柔らかな声で答えた。
「知ってる。いつも言ってるだろ」
「うん、じゃあ最後に一つ質問に答えてくれる?」
「何だ」
 旅二郎が振り返りながら、聞き返す。すると朝子は真顔で詰め寄った。
「黒のレース付きランジェリー上下セットと、淡いピンクのベビードールと、どっちがいい?」
 旅二郎の可愛い姪っ子、朝子。彼女はアホな事を聞く時は真顔になるという真実を、十年の月日が流れた今になって知ってしまった。


 旅二郎に下着の趣味を聞いた翌日。朝子は告白をされた。
 それは「悪い、俺、実は宇宙人なんだ」というショッキングなことを告げるものではない。同じクラスの男子に告白された。
 その告白というものは、どんなに美しい言葉で飾ろうとも、全てにおいてたった一言に集約される内容だった。
 すなわち「好きです、恋人になってください」と。
 それはあっという間に女子寮の話題の種となった。学校から寮へ帰宅した瞬間、寮生はマスコミのように朝子に事の真意を問い詰めた。
 朝子は適当にそれを受け流した。なのに、彼女らはなぜか朝子の健闘を祝して鍋大会をすることになった。
 ただの鍋は面白くないので、なぜか闇鍋をすることになった。イカ墨をベースにしただし汁に部屋を真っ暗にして具材を投入して、一人ずつ度胸試しのように食べていく女子寮内の恒例行事でもある。
 一年、二年、三年とグループごとに分かれ買出しに向かったのはそもそもの元凶、朝子とその友人である渡里と志紀だ。
 そして盛大に告白されそのお祝いだのと騒がれたせいなのか、朝子は憂鬱そうだった。
「みんな、ひどい。闇鍋の材料、ぼくには何も選ばせてくれないなんて」
 毎月の女子寮恒例行事と化した”何か適当に理由かこつけて盛大に騒ごうぜ、闇鍋大会”のための材料を買い込んだ一年生トリオの一人である朝子は落ち込んでいた。
 しかし彼女は別に鍋大会の元凶にされたことに対して、さしたるショックは受けていない。
 と言うよりも、元々告白されたことをいちいち気にする神経の持ち主ではない。鍋大会のだしにされた程度で傷つくような繊細な神経など朝子は持っていないのだ。
 彼女ががっくりきているのは、自分の選んだ闇鍋の食材だった。
 頑張って考えて選び取ったそれらは、あっという間に却下された。自らの選んだ食材が拒絶されたのだ。自信があっただけに、朝子はまるで自分の存在価値すら否定された気がした。
「あのね、朝子。あたしも鬼じゃないの。別に選んでもいいのよ。でもね……」
「わかった。じゃあ、もう一度選んでくるね」
 くるりとスーパーの買い物かごを渡里に預けたまま、朝子はもう一度挑戦しようと試みた。
 だが、渡里が背後から肩をがっしりと掴む。あまりに強い力なので朝子は前に進めない。
「だから、何で食材コーナーじゃなくて、家庭用品コーナーに行くのよアンタわ!!」
 渡里が絶叫する。スーパーでお買い物中のおばさま方の視線が痛い。けれど、それでも朝子の行動は阻止せねばならなかった。
「ひどいよ、渡里。ぼくの選んだものの何が気に入らないの」
 朝子は無表情ながらも目に涙をためながら、どこか凛々しい顔をして訴えた。しかし渡里の返答は冷たく、鋭かった。
「闇鍋といえど、さすがに三角コーナーとかサランラップとかスリッパを鍋には入れたくないのよ」
 何度も食べるものを持ってこない朝子に、渡里はもはや呆れるしかない。
 朝子の選んでくる材料は、全て雑貨品であり、その原料は突き詰めていけば石油だ。
 何でもいいから適当な食材をぶっこんで楽しむ闇鍋だが、何で食べられるものを選んでこないのか。フォロー役の志紀もこれには苦笑いするしかない。
「まあまあ、渡里ちゃん。これが最後だと思って、もう一度選ばせてあげようよ」
「……じゃあ、今度こそマトモな食材選んできなさいよ」
「わかった」
 朝子は力強くうなずく。その力強さが逆に不安を煽ったが、そこは彼女の常識を信じようと思う。とりあえず、何でもいいからプラスチック以外のものを持ってきてほしい。
 やがて、朝子は満足そうな笑みを浮かべて、戻ってきた。
 手渡されたのは重くてずっしりした黒い塊。渡里は朝子の持ってきたものが何なのか悟ると、条件反射のように叫んだ。
「ステンレスの十徳ナイフじゃねえか!!」
 すぱーんっ、と渡里がもう耐え切れないと言いたげに朝子の頭をはたいた。
 大きなカッターナイフ程度の大きさを持つそれは、一時期アウトドア系人間の間で流行ったものだ。
「また食べたら口から血が出そうなものを……」
「これもダメだなんて……!」
 朝子はこの世の終わりみたいに頭を抱えた。ぼく何を選べばいいかわからないよ、とぼやく。
 とりあえず志紀は微笑みながら、朝子を励ました。
「笑えばいいと思うわ」
「わかる人にしかわからんネタはやめろ」
 元ネタがわかったらしい一年生トリオのつっこみ筆頭は冷静に話に割り言った。
「それにしても、朝子。あんた、何でも告白されたそうじゃない?」
 渡里がにやにやしながら聞いてくる。そもそもの闇鍋の原因。何だかんだでどんな風に告白されたのか聞きそびれたのだ。
 朝子は無表情のまま、それに答える。
「うん。知らない人」
「名前は?」
 志紀も興味があるのか、わくわくしている。
 元々、この買出しトリオはこの真実を見極めるために構成された部隊でもある。朝子は別に隠す必要もなかったので、首をかしげながら二人の質問に答えた。
「聞くの忘れた」
 朝子は告白された。
 古風にも手紙で校舎裏の木の下で呼び出されて。
 十一月という秋も終わりというクソ寒い中、待つのは辛いだろうという親切心があったのでなるべく早めに行った。そこで、告白されたのだ。
「どんな人なの?」
「顔は、メガネかけてたかな。髪の毛は耳辺りまで。あ、でも前髪が長かった」
 つらつらと朝子は告白者の特徴を上げていく。その勇気ある男子生徒の顔に、特に見覚えはない。
 たぶん、同じクラスの人間だと思う。朝子は人の顔を覚えるのが苦手だ。それゆえにうろ覚えの相手の顔を頑張って思い出そうとする。
 その告白の結果は朝子のことを少し詳しく知る人間であれば、火を見るより明らかだった。
「かっこよかった?」
「まあ、そこそこ。それなりにカッコいい部類だと思うよ」
「断るの?」
 朝子はうなずく。まだ正式に断ってはいない。あとで返事をくれと先手を取って言われたのだ。
 朝子の返答は決まりきっている。
 自分には他に好きな人がいるのだ。それなのに好きでもない相手と付き合うのはおかしい。この辺は一般常識と一致している。
「うん。ここはやっぱりオブラートに包んでお断りすべきだよね」
「どんな風に?」
 志紀が心配そうに聞いてきた。朝子は一つうなずいて。
「アリガトウ。でも、ぼくは前世からの因縁で銀の紋章をその背に負った旅二郎こそが運命の相手なんだ」
「どこの電波系だ!! やめなさい、その断り方だけは! 黄色い救急車を呼ばれるわ!」
 渡里はまた条件反射のように叫んだ。再びお買い物中のおばさま方の視線を集めたが、こんな事を言われては叫ぶしかない。
「でもさ、ひとまずキープにしとくとか。あと二股とかは〜?」
 つっこみからいち早く頭を切り替えた渡里が、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。渡里はこういう話題が大好きな今時の女の子なのだ。少々と意地が悪いのは仕様である。
 それに朝子は冷たい視線を渡里にぶつけ、ぽつりと言った。
「渡里は将来、同時告白されたら調子に乗りまくった挙句、浮気がばれて即行で捨てられるタイプだよね。傍目を気にせず縋りついて、あたしを捨てなないでーってバカみたいに泣き喚いて、みっともないの」
「うぉぐっ!?」
 朝子の長々とした想像を思い浮かべたらしく、渡里は勝手にダメージを受けた。朝子はそれに手を貸さない。
 朝子は買い物かごを渡里から奪い取ると、さっさとレジへと向かう。
「この話題は終わり。さっさとレジで清算するよ」
「はいはい」
 朝子を追いかけ、渡里は財布の中身を確認する。
 さほど離れてもいない所から、志紀はそれを眺め、嘆息して一言。
「……もう、ちゃんと告白を断れるのかな」
 その心配が後に現実と化すことを、まだ彼女は知らない。


 小気味いいとも、高圧的とも似つかぬ足音がする。
 キュッキュッ、と生き物の鳴き声のようにも似たそれは、真昼の校舎に響き渡る。
 別段、それはおかしな音ではない。この学校ではある種の日常茶飯事である廊下を、学校指定の上履きで歩く音だ。
 どんなに努力しても、あの独特な足音は消えない。そしてその足音を奏でているのは、粟井 森(あわい しん)という学生である。
 青のラインが入ったネクタイと上履きは、彼が祝海高校の一年生であることを表していた。
 彼の目的地は唯一つ。東校舎にあるカウンセリングルームを兼ねた保健室。
 目的地である扉をスパァンッ! と容赦なく開け放ち、ずかずかと遠慮という言葉を知らないかのように入室してきた。
「日部先生、いますね?」
「……はいはい、何か用か?」
 どうやらベッドで眠っていたらしい不良教師を見つけると、粟井は満面の笑みを浮かべた。
 その笑みは数少ない友人らに真正面から嘘っぽいだの胡散臭いだの言われた曰く付きの笑顔でもある。
 ただし今現在、その男前と称されてもおかしくない顔は赤く腫れていた。右頬を中心に赤味が広がっている。端的に言うとぶたれた跡だ。
「何だ、眠ってたんですか? どうせなら永眠して、二度と目覚めなくてもいいんですよ?」
「入ってきていきなり暴言!? 何よ、いきなりっ。俺、お前に何かしたか!?」
 日部 旅二郎。それが粟井のターゲットである。旅二郎は白衣をもたもた着ながら、丸イスに座って無礼すぎる学生を出迎えた。
 粟井は怪我しましたと右頬を指差す。まるで誰かに殴られたみたいだな、と旅二郎は思った。
「ったく。顔、どした? はあ、メンドくせえ。ガーゼはどこやったか……」
 戸棚を調べる旅二郎の背中を、粟井はじっくりとつむじの上からつま先までじっくり舐めるような視線で観察した。
 そして、巷で爽やかな好青年と称されそうな笑顔で一気にまくし立てた。
「先生って、情けないですよね。威厳がないっていうか、だらしないっていうか。同じ男なのに僕の競争心とか闘争心とかをまるで揺さぶらない人ですね」
「そうか。……つまり、心が休まる素敵な先生って言いたいのか?」
 突然の発言に唖然と仕掛けたが、そこはそれ、旅二郎は冷静に対処した。
 子供のたわ言だが、やはり腹が立つ。大人の余裕を総動員して、軽いジョークとして綺麗に流す。立派過ぎる大人がここにいる。
 今は湿布を探すため背を向けているが、もし彼を真正面からその姿を捉えたら我慢の意味と教職の立場を忘れて殴りかかってしまいそうだ。
「違いますよ。日部さんは何であなたみたいな人が好きなんだろうなって思っただけです」
「朝子絡みかよ」
 旅二郎は粟井の罵倒の理由が何となくわかり、愕然とする。
 旅二郎は知らないがこの粟井という少年は、つい先日に朝子に告白した。
 返事はもちろんNO。お断りの返事が返ってきた。
 好きな人がいるというのが理由だった。普通ならこれだけで終わる。しかし、終わらなかった。告白した彼が、少しだけ普通ではなかったのだ。
 彼は、粟井 森という男は恐ろしく粘着質な性格をしていた。ついでに毒も良く吐いた。
 粟井の本性を知る人間は、朝子に同情しただろう。しかし朝子も一筋縄の相手ではない。
 ねっとり、じっとり、たっぷりと。そんな音がしそうなくらい、粟井は朝子に詰め寄った。それこそ、ストーカーのようなしつこさで。
 その横暴に耐え切れずとうとう堪忍袋の緒が切れた朝子が粟井を張り飛ばしたのが、今から約五分前の話である。粟井の右頬の赤味は、自分の好きな人による反撃の傷跡なのだ。
「僕は日部さんが好きなんです。スカートの中に手ぇ突っ込んだり、下着の色は何色なのかなと妄想して、興奮するほどに好きです」
「そういう発言は慎め。学校だぞ」
 どうやら粟井は、ある意味歪んだ青春を謳歌しているようだった。
 同時に年頃の男の子の妄想入り混じったそれに、旅二郎は冷静につっこむ。自分の姪っ子がそういう対象で見られるのは、何か嫌だ。
「僕の勝手じゃないですか」
「……あの朝子にエロい事したいのか、お前」
「率直に言うと、そうなります」
 こうまで自分に正直すぎると、いっそ清々しいなと旅二郎は思った。
 ついでに、こいつはきっと友達少ないだろうなとも思った。思わずため息がこぼれる。
「お前には色々がっかりだよ。思った以上に正直すぎて、末恐ろしい」
 素直と正直は似ているが違う。意味合いが全然違う。彼は思った事を躊躇なく言っているだけだ。それが恐ろしい。心の中で思った事を簡単にさらけ出すというのは、自分のありのままをさらけ出しているに等しい。
 わざとなのかどうかは不明だが、どちらにしろこの粟井という少年は他人からどう思われても知ったこっちゃないという人種らしい。
「日部さんは、あなたのことが大好きみたいですね」
 自分の想い人のことを語るというのに、その口調はまるで動物を使った生体実験の過程を語るような事務的な物言いだった。
「彼女は本気ですよ」
 冷淡に、よく通る声で彼は言う。別に何ということのない、ただの真実を告げる口調だった。
「最初は子供っぽい、ただのアイドルの追っかけもどきみたいなミーハー心かと思いましたが違うようです。日部さんは、筋金入りの片思い遍歴者ですよ。しかも、相手があなただっていうからお笑いだ」
 その鋭い切れ味を持った判断は、恐ろしいまでに的確だった。そう、粟井の言う通りだ。しかし、旅二郎はそれを肯定するわけにはいかない。認めてしまっては何かが壊れてしまう。そんな気がしたからだ。
「彼女、なかなか必死ですよ。それこそ滑稽なくらい、あなたを追いかけてます」
「……知ってる」
 小さく、恐ろしく自信のない弱々しい声で旅二郎は呟いた。朝子は追いかけてくる。どこまでも、どこまでも、どんなに逃げても必ず追いかけてくる。
「何でとどめを刺さないんですか」
「…………」
「彼女が諦めないのは、あなたがはっきりと言わないせいじゃないんですか?」
 粟井の言葉、一つ一つは鋭利で、旅二郎の頭の中に突き刺さる。それも正確に、一番痛いところを。外科医の使用するメスみたいな切れ味だ。
「だから、勘違いして、どこまでも追いかけてくるんですよ」
「……良く、見てるんだな。朝子のこと」
「気になることは徹底的に解明するたちなんで」
「ストーカーか」
「そう取ってもらっても構いません。愛は全てを受け入れるものですから」
 紛うことなきストーカーの戯言だ。旅二郎は何も言わない。反論しない。
 こういう人種には何を言っても無駄なのだ。論じた所で会話にならない。言葉というボールが場外ホームランして、球場から飛び出てしまうのだ。
「…………。お前は朝子のどこが好きなんだ?」
「そうですね。あの、どこまでも真っ直ぐで、融通のきかない所はかわいいですよね」
「後者の意味がわからん」
「頑固なのはいいですよ。一度こうと決めたら、絶対に裏切らない」
「…………そうか、そういうもんか」
「それに」
「……?」
「あなたが相手なら、奪うのは楽そうですね」
 随分な言い草だ。挑発しているのか本音で語っているのかわからない。あるいはその両方かもしれない。
「……俺なんて相手してないで、本人に言えよ」
「それって、敵に塩を送るってことですか?」
 それに旅二郎は大きくため息をつき、呆れたような顔で粟井に向き直った。
「あのなぁ。俺は朝子が誰と付き合おうと関係ないんだよ。叔父としては、まともな男と付き合ってくれるだけで万々歳だ」
「つまり、あなたは日部さんのことを恋愛対象として見ていないと?」
「そうだっつってんだろ」
「なるほど、良くわかりました」
 それに粟井は清々しい表情になる。まるで憑き物が落ちたような顔だ。
「だそうですけど。どう思いますか、日部さん?」
「へ?」
 保健室唯一の扉の向こうに、粟井は話しかけた。嫌な予感がする。そして、扉の向こうからは人の気配がした。
 どうして今まで気付かなかったのか。誰かいる。
 これはもしかしなくとも。
「…………」
 そこには不機嫌ですと看板背負って立つ、旅二郎の姪っ子の日部 朝子の姿があった。
 旅二郎は硬直する。これはどう反応すべきか迷う。一体何を言えばいいのだろうか。下手な事を言えば、泣くかもしれない。
「……本当なの?」
「あ?」
「ぼくのこと、女として意識してないって、本当?」
 その時の朝子の顔は、泣き出す寸前のいじめられっこの顔をしていた。もしくは、親に怒られる事を決心した子供の顔。
 泣きそうな顔をしていたけれど、その目には涙の粒はない。乾いた瞳で問いかけてきた。それが自分のせいだと思うと胸が痛んだ。
 そして、粟井の先ほどの台詞が頭に響く。何でとどめを刺さないんですか、と。いい加減な態度を取るから、勘違いして諦めないのだ、と。
 潮時かもしれない。今まで中途半端に接してきたツケが回ってきた。そして今、そのツケを清算すべき時が来たのだ。
 旅二郎は意を決して、切り捨てるかのように言い放った。声が震えているのは、自分の弱さの表れだった。
「…………。ああ、その通りだよ。悪いけど俺はお前を女として意識した事なんて、一度もない」
「……そう」
 朝子は冷静だった。顔を伏せてうつむく。傷ついてはいるが、泣いたりなんかはしなかった。
「だからお前も俺なんて相手にしてないで、健全な青春を謳歌しろよ。そこの粟井だったか? そいつと付き合えばいいんじゃないか」
 軽い、社交辞令のような励ましにも似た一言。
 それが、朝子の逆鱗に触れた。
 それを聞いた瞬間、朝子の瞳孔が一気に広がった。興奮したことによって、瞳孔が異常なほど大きくなったのだ。それは暗いところで光る猫の目に似ていた。
 同時にぶつん、と朝子の中で何か大事なものが切れた音が朝子の耳に届いた。それはまさに堪忍袋の緒が切れた音だ。
 静かに怒り狂った朝子の行動は早かった。つかつかと目標に近づいて彼の股間めがけて、思いっきり手加減せずに蹴り上げた。
「あぐほッ!!?」
 その衝撃に旅二郎は悶絶した。蹴られた場所を押さえうつ伏せになり倒れこむ。目元は痛みによる涙が浮かんだ。まったく警戒していなかったため、無防備に喰らった衝撃は凄まじかった。ひくひくと死にかけの動物みたいに痙攣する。
「旅二郎のバカ!!」
 腹の底から朝子は大好きな叔父を罵倒した。それは、朝子にとって一番耐え難い一言を告げたからこその制裁だった。
「ぼくが、ぼくが後にも先にも、一番好きなのは、ずっとずーっと旅二郎だもん! それだけは、絶対に、絶対なの!!」
 朝子は叫ぶが旅二郎は床に沈んだまま、何も言わない。震える旅二郎を見て、朝子は今度こそ涙目になった。
 どんな時でも決して泣かなかった朝子が泣いている。それだけでどれだけ彼女が傷ついたのかがわかる。
「ぼくの気持ち知ってるくせに、何だよそれ……!」
 別の人と付き合えばいい。その一言が、朝子には何よりも辛かった。他の誰でもない、旅二郎に言われるのだけは嫌だった。
 死刑宣告のように告げられたものは、朝子にとっては一番の屈辱でもあったのだ。
「もおいいよ! 旅二郎のばか! ばかばかばかばか!! 大っ嫌い!!」
 子供がわがままを言うみたいに、朝子は叫んだ。
 それだけ言っても旅二郎は何も言い返さなかった。うつ伏せになったまま、地面で震えているだけで反論はない。朝子の方を見ようともしない。
 朝子は足早に保健室から出ようとした。旅二郎は何も言わない。追いかけても来やしない。
「……旅二郎のばかっ」
 そんな旅二郎を見て、捨て台詞を吐きながら朝子はその場を去っていく。一刻も早くここから立ち去りたいという思いがこれでもかと伝わってくる。同時に追いかけてきてほしいという思いも。
 残されたのは地面の上で震える哀れな女子寮の寮監と、右頬を一発叩かれた粟井、そして朝子の残した涙の跡だけだ。
 そんな二人の諍いの原因を生み出した朝子に恋する男、粟井 森はただ同情めいた一言を発した。
「……さすがの日部先生も、股座を蹴り上げられたら何も言い返せませんよね」
 恋敵ではあるがそれ以前に男でもある保健体育担当の教諭に、粟井は心の底からお悔やみを申し上げた。


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