「まったく、本当に面白い勇者さまだ」
そう言ってアーガリスは苦笑交じりの大きなため息をついた。診療所にあるベッドの一つを占領しているのは一人の少女だ。
首からかけていた懐中時計は銀の鎖が髪の毛に引っかかって痛そうだったから、外させてもらった。かすかな魔力が漏れた所を見ると、強い魔力のこもった特殊なアイテムらしい。前に会った時には持っていなかったはずだ。
注意深く髪の毛に引っかからないように外すと、枕元にそれを置いておく。
そして蜂蜜を焦がしたような色をした長い髪の毛を枕にゆだねさせる。白く細い喉を通じ、桜色をした艶めいた唇からは静かな寝息がこぼれた。
まだ完治していない腕の傷に塗り薬を塗りつけて、ついでに脈を計った。とくとくとく、と規則正しい音が返ってきてほっとする。もし彼女に何かあったら、リュミエルの幼馴染みから何をされるかわかったものではない。
アーガリスは首を傾げる。脈は正常、別段異常はない。特に疲労している様子はないし、魔力の巡りも異常はない。何が彼女の意識を奪ったのかわからない。
悩んでいると、ふと人の気配がした。なぜ気付いたかというと、その気配は己の存在感を主張するように荒々しく扉を開き、人の気配を追ってこっちに向かってくるからだ。
「リュミエル!!」
押し入って来たのは、アーガリスの予想していた人物であった。
「お早い到着だな、王子様」
「気色の悪いことをほざくな!」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて出迎えた人物、それはアーガリスの学友であるシーゼンだ。ぜえぜえと息が荒いのはここに来るのに全力疾走したからだろう。その理由をアーガリスは予想できるし、それが見事的中しているという自負があった。
「恋する王子の方が、語呂がいいのかな?」
「誰が恋してるんだ、誰が!!」
「……前に告げた診断内容を繰り返すのは、別にやぶさかではないんだがな」
アーガリスはやれやれと往生際の悪い友人に呆れて肩を落とした。
そして、学院の生徒が物覚えの悪い生徒にわかりやすく数式を教えるように、かつてアーガリスの行ったシーゼンの精神の診断結果を告げる。それは以前に目の前にいる魔法使いに恋愛相談なるものをした経験があるからこその診断結果だった。
「君は頭はいいクセに、本当にアホだね。いいか? もう一度、医者として君の症状を確認するが、構わないな?」
アーガリスは椅子から立ち上がり、人差し指をシーゼン容赦なく突きつけた。この二人の間に人を指差してはいけないなんて考えはない。
「それは特定の人にしか出てこない症状で、近くにいると緊張し、どうにも苦手に感じてしまう。その二枚舌の滑りが悪くなって、腹部が痛む。そして、傍にいないならいないで落ち着かない」
「……」
「同じことを繰り返すつもりはないが、君の抱える不治の病の名前をはっきり言っておくとしよう。なあ、シーゼン。それはな、恋というものだよ」
自分の精神状態の異常性。それを親友といってもいい医者に告げられて、シーゼンはぎりり、と杖を握り締める。
シーゼンの身体を支配する激情、血管を巡って増幅される感情。それの名前はシーゼンは知らない。それを認めてはならないと、自分の中の誰かが告げる。
「ふざけるなよ。俺が、誰に恋してるって言うんだ?」
出てきた声はアーガリスの予想していた声色より低く、何より冷静だった。
「押し問答だな、シーゼン。気付いているのに気付かないふりか。つまらない、実につまらないよ」
「うるっさい!!」
ばちっ! と激しい稲妻が、病院の床タイルを弾けさせ閃いた。怒りによってシーゼンが魔力を爆発させたのだ。シーゼンの癖みたいな癇癪だ。もちろん癇癪だけあって触ると痛い。
「まあいいさ。問題のお姫様は君の事を忘れている。あれは、あれかな。本とかに良くある事例の」
「……何が言いたい」
く、とアーガリスはシーゼンの苦虫を噛み潰した顔を面白そうに眺める。シーゼンのこんな顔は珍しい。いつもいつも他人を苛立たせることしか言わないこの魔法使いが、ベッドで眠る一人の少女が関ると子供のような癇癪を起こす。
人様の恋愛事情ほど面白いものはないのだ。アーガリスはここ一番、意地悪な笑顔を浮かべて言ってやる。
「初恋は実らないと相場が決まっている。玉砕したな、見事に」
それを聞き、シーゼンは真っ赤になって反論した。お得意の口の悪さを暴発させる。
「してねえよ! バカじゃねえ!? 本当にお前脳みそ腐ってるな! 医者の不養生で死ねよ、一番苦しい病気かなんかにかかって死ね! 世のため人のため俺のため、土に返れ!」
「君なんかのために土に埋まりたくはない。つか、リュミエル起きる。声でけえ、態度もでけえ、そのくせ背は小さいなお前」
「最後は余計だ、ヤブ医者!」
「本当にリュミエルが起きるぜ、シーゼン」
それを聞くとシーゼンはぐっと押し黙り、罰の悪そうな顔をした。自分勝手が服を着て歩いているような男だが、それでも病人に対しては遠慮はあるらしい。
「……ああもう、そんなことよりも、その。あれだ。うん」
何か言いたいことがあるのか、シーゼンはしどろもろどになりながら呟く。
「別に、本当はどうでもいいんだけどさ。ほら、あれから、リュミエルは、その……どう、なんだよ」
最後のほうが尻すぼみになっている。なるほど、とアーガリスは納得した。シーゼンの性格上、ここに来るのは断頭台に上がる死刑囚のような気分なのだろう。
何といっても筋金入りの意地っ張りだ。誰かを心配したり、親切にする行為に反吐が出ると豪語する人でなしだ。そんなシーゼンがリュミエルの見舞いにやってくるという行為は、猛烈な自己嫌悪を襲うのだろう。例えるなら、泥沼に頭を突っ込んだような気分か。
「寝てる。顔を見るか? 魔王を倒した勇者も寝顔は女の子だな」
「み、見たのかテメエ! この変態! ヤブ医者! 強姦魔の色情狂が!!」
「おいおい、誤解を招く言い方はやめろよ」
なぜか顔を真っ赤にして罵詈雑言をぶつけるシーゼンに、アーガリスは肩をすくめた。医者なのだから、患者の様子を見るのは日常茶飯事だ。罵倒されるいわれはない。
「医者の本分を果たしただけだ。……まあ、彼女の寝顔に、ちょっとときめいたりしたのは事実無根とは言い難いな」
「……死ね!!」
そう言ってシーゼンはアーガリスに向かって劇薬とされるかぶれ薬の瓶を投げつけてきた。アーガリスはうおう、とか言いながら避けたが、その避けた結果、薬の瓶は地面にぶつかって甲高い音をたてて砕け散った。
「……あーあ、お前のせいだぞ。何で避けるんだよ。素直に当たっていればいいのに。まったく、ちゃんと片付けろよ」
地面に散らばった薬瓶だったものの欠片をみて、投げた本人であるシーゼンは咎めるように言った。
「なーんで、君の犯行を共犯者にされるのでもなく、一方的に犯人扱いなのか。俺は被害者だろ」
アーガリスが口を尖らせてシーゼンに反論する。しかし、シーゼンは何を言っているんだと言いたげに胸を張る。
「何言ってんだ。お前が避けたせいで割れたんだから、お前のせいだろ。変なことを言う奴だな」
「……君と旅してきたリュミエルに同情したいよ、可哀想に」
「わたしがどうかしたの?」
「へ?」
アーガリスとシーゼン、奇しくも幼馴染みであり学友である二人が振り返る。
そこにいたのはリュミエルだ。騒ぎを聞きつけて、起きてしまったのだろう。先ほど倒れたせいもありその顔は青白く見えた。また手には首にかけていた懐中時計を持って、不安そうに二人を見つめた。
「あ、あなた……そう、アーガリスと友達だったって言っていたわね。どうしてここに? 具合、悪いの?」
「っ、るさいな! 親でもないくせに、いちいち口出しすんな!!」
「でも」
心配そうに声をかけるリュミエルを振り切り、シーゼンは憎々しげに彼女を睨みつけた。
「うるさい! 俺の事をキレイさっぱり忘れたくせに余計な口出しするな! 前にも言ったが、頭の悪いお前にもう一度言ってやる! 俺はな、お前のことなんて大嫌いだ!」
本心から言ったことではない。しかし、彼女とたびたび口論になり――実際にはシーゼンの一方的な口答え――何度となく告げたものだ。
何度も何度も、繰り返しシーゼンはリュミエルを嫌いだと言う。それは子供が好きな女の子をいじめることと同じものとアーガリスは知っていた。だが、今のリュミエルには予想以上のダメージを与えた。
「…………」
ぽたり。床に一滴、水が流れ落ちた。それはリュミエルの翡翠色の瞳から零れ落ちた涙だ。
シーゼンは唖然とし、アーガリスは言葉もない。
相手は勇者なのだ。この世界を覆う絶望の風を払い、魔王を打ち倒した英雄。そんな彼女が泣いている。どんな時でも、常に明るい笑顔を忘れなかった彼女が、今この瞬間泣いている。
それなりに付き合いの長いシーゼンでも唖然とした。何と言ってもリュミエルは魔王配下のものの呪詛を受けても、仲間に裏切られて窮地に立たされても弱音を吐かず、涙すら見せない強情っぱりなのだ。
そんな彼女が泣いている。シーゼンは口癖のようにリュミエルが泣く所を見たいと言っていたが、こればかりは予想外だ。
何で泣くのか。シーゼンの悪意に満ちた言葉を、いつも悲しげに微笑みながら流していたリュミエルが、どうして。
「……知ってるわ」
か細い声は、リュミエルの唇から漏れた。その声には感情の起伏はない。ただ、耳を済ませば嘆きの予兆を察せたかもしれない。
「知ってるの。シーゼンが、わたしのことを嫌いだなんて。もうずっと前から」
リュミエルは涙を流しながら、そう告げる。感情に変化はない。その翡翠色をした瞳には何も映っていない。漠然とした感情の澱みだけがそこにあった。
「でも、わたしはシーゼンが好きだった。だから、だからわたしは……」
一体彼女は何を言っているのか。話の矛先を向けられたシーゼンは何かを言う暇すらなく、唖然とする。
「忘れようとしたのに! わたし頑張ったよ、すっごく頑張ったのにどうして!?」
これは、誰だ。泣いて癇癪を起こし、物事が思い通りにいかずに駄々をこねている。
それはシーゼンの知るリュミエルではない。ならば目の前にいる彼女は、一体誰だ。
「どうしてわたしのことをほおっておいてくれないの……? 嫌いならどうしてわたしに関ったの!?」
鼓膜を突き刺すような怒声。
あの温厚なリュミエルが怒鳴っている。まったくもって有り得ない状況にシーゼンは混乱を隠せない。
「……っ」
混乱しているシーゼンをよそにリュミエルは言いたい事を言うと、その場から逃げるように立ち去る。
「おい……待てよ、リュミエル!」
そして、反射的にリュミエルを追いかけようとする。
彼女が涙を流したのも驚いたが、聞き間違いでなければ確かにシーゼンの名前を読んだはずだ。記憶が戻ったのか、それだけを確認しようとシーゼンは反射的に追いかける。
「待てって」
それを止めたのはアーガリスだ。阻むように出入り口に立ちふさがる。
「どけよ」
「リュミエルに会ってどうするつもりだ?」
「はあ?」
何を言っているんだこいつと、シーゼンは心底理解できないという声を返した。普通ならカチンとくるだろうが、そこは付き合いの長いアーガリスだ。彼の一声を軽く無視する。
「リュミエルはさ、普通の記憶喪失じゃないんだよ。あの様子を見ているとわかるかもしれないけど」
「記憶喪失に普通も異常もあるか?」
もっともな意見だが、本筋に関係ないのでまた無視する。
「いいか? リュミエルは自発的に君の事だけを忘れようとしたんだよ。……多分だけどな」
アーガリスはリュミエルの去った方向へと視線を送る。もっと注意深く観察したら、それはリュミエルではなく彼女の持った時計に注目していると気付けたかもしれない。
「もちろん何でそんなことをしたのかわからないけど……本人に聞くしかないよな」
「だったら俺が聞いてきてやるよ」
「馬鹿。そんなことしたら彼女が傷つく」
きっぱりと、断言するようにアーガリスは告げた。
「リュミエルは、確かに英雄だけど、それ以前に女の子なんだよ。誰かの発言に怯えたり傷ついたり、そんな普通の女の子なんだよ。君はそれを理解しているのか?」
「……」
理解、しているのか。
そう言われて、シーゼンは何も言えなくなる。
わかるわけがない。リュミエルは底抜けのお人好しで、何度騙されてもへこたれない。決して人を疑ったりしない。そんな自分と対極的とも言える人間のことを、シーゼンがわかるわけがない。
「推測はあくまで推測でしかない。なあ、シーゼン。君がリュミエルを傷つけるためだけに追いかけるというのなら、俺は身体を張ってでもそれを止める。俺はリュミエルの主治魔法医だから。それだけは許すわけにはいかない」
シーゼンはまた沈黙した。やがてその重い唇から言葉を紡ぐ。
「……傷つけるつもりなんてない。確かめるだけだ」
アーガリスはそれを聞くと肩を落として、道をあけた。その言葉を信じてやる、ということらしい。
「行けよ。好きな子泣かせる魔法使いってのは、かっこ悪すぎるぜ」
「うるさい、死ね」
最後まで悪態を忘れない親友に、シーゼンは吐き捨てるように言い返した。


診療所から少し離れた緑の丘。そこまで走りきったリュミエルにかちりかちりと、時計の針が動く音が聞こえる。それも、すぐ耳元で。
耳障りではない。けれど、その音が進むにつれてリュミエルは己の記憶が戻っていくのを理解した。
かちりかちりと、聞こえる時計の音。それはリュミエルが賢き竜と謳われた、物静かな場所を好む竜から賜った懐中時計から発せられた。
銀縁の懐中時計は、細かな植物の細工が施されていた。それはヤドリギの細工だ。ミスリルと呼ばれる魔力のこもった鉱物に、さらに魔術的記号をいくつか刻み込まれたそれは、特殊な効果を持つ装飾品だった。
賢竜はこれを旅に役立てろと告げて、リュミエルに渡した。それは、一度だけ時間を自在に操ることができるというものだ。
そして、それは人の記憶操作が可能と言う事を明示していた。記憶と時間は密接に重なり合っている。もし時間という外路を通じて、誰かの記憶と言う街路樹を植え替えてしまえばどうなるか。それは記憶の改竄と忘却につながる。記憶操作という禁断の秘術につながる。
リュミエルはこの懐中時計を使うことはなかった。この時計の用途を誰かに話したこともない。人の時間を、記憶を操作することは魔王にも勝るとも劣らない卑劣な行為に思えたからだ。
しかし、今、ヤドリギの懐中時計から記憶が零れ落ちてくる。封印が解けていくのだ。その原因はこの懐中時計を肌から離したことが原因だ。
濁流のように、リュミエルの記憶が戻ってくる。それはシーゼンという性格の悪い魔法使いの記憶だ。
リュミエルが忘れたくて、消し去りたくて仕方なかった記憶達だ。
それは、どれもが宝石のように輝いていた。本当は忘れたくない。けれど、覚えていては傷つくばかりの思い出なのだ。
「リュミエル!」
追いかけてきたのは、やはりシーゼンだ。自分のことを嫌いと何度も言って、傷つけてきた意地悪な魔法使い。
「……どうして」
どうして追いかけてきたの。嫌いなら、どうしてほおってくれないのか。
そんな事を聞こうとしても、うまく言葉にならない。戻ってくる記憶の渦に翻弄される。ちりちりと頭が炎で炙られたかのように熱い。
「何で俺の事を忘れようとしたんだ?」
「っ!?」
「その顔、図星か。ついでに記憶も戻ったみたいだな。……元凶はその懐中時計か?」
シーゼンは乱暴にリュミエルの手元にあった懐中時計を奪い取った。
「あ、やめて……!」
「なるほど。増幅、必要、拒絶、年月のルーンを刻んで、それを聖なるヤドリギで包み込み、中央には忘却のルーンを置いてるな。効果は……術者にもよるけど、記憶の改竄、強奪って所か?」
一目見ただけでヤドリギの懐中時計の効果がわかるとは、自称とはいえ世界一の魔法使いと名乗る実力はある。
「何で俺のことを忘れようとしたんだ」
静かな問いかけだった。リュミエルはそれに沈黙で答えた。
どうして、何で。そんなのこっちが聞きたいくらいだ。全ては、彼が原因だというのに。
「……だ、だってシーゼンはわたしのことが嫌いなんでしょ?」
鳴きそうな声で、リュミエルは言った。瞳から零れ落ちそうになる涙を必死にこらえて。
「何度も、言ったじゃない。嫌いだって、憎たらしいって。だから、だからわたしは……」
「うっさいんだよ! ああもう、鬱陶しいなお前!! 昔の事をいつまでもいつまでも!! そんなのそっちの勝手な思い込みだろ!!」
リュミエルの小さな声とは対照的に、シーゼンは猛烈な勢いで怒鳴った。
「俺はそんなこと言った覚えはないからな! お前が勝手に勘違いして、暴走しているだけだっていい加減わかれよ!! そんなこともわからないなんて本当に救いようがないな!!」
「なっ、何よ、嘘つき!! 絶対に言ったわ! わたしのこと、大嫌いだって、いなくなればいいって……言ったじゃない!!」
「言ってない! お前の勝手な妄想だ!!」
「そっちこそ妄言じゃない! 絶対に言ったわ、わたし覚えてるもの!!」
「はン、お前の記憶なんか信用できるわけないだろ! 都合のいい事にしか変換しないのは、実証済みだしな!!」
「っ、それはシーゼンのせいじゃない!」
痛いところを突かれたが、それでもリュミエルは引かない。自分が彼の記憶を忘れたのは、彼に嫌われるのが、憎まれるのがどうしようもないくらい苦しかったせいだから。
「俺が悪いって言うのかぁ?」
「悪いわよ! わたしのこと嫌いなくせに、思い出せって! 何でわたしをほっといてくれないの!? わたし、シーゼンの力になりたくて、助けたくて頑張ったじゃない! いっぱいいぱい、頑張ったじゃない!!」
金切り声で勇者と称された少女は泣き喚いた。滅多に見せないリュミエルの怒り、それにシーゼンは飲み込まれる。
「でも、シーゼンはわたしのこと嫌いで! わたし、シーゼンに何もしてあげられなくて! 憎まれて嫌われて、消えてしまえばいいなんて言われて! すごく苦しかった! 辛かったよ? 悲しかったよ? だから!」
だから、全てを忘れた。何も残さずに、全部消え去るように。
「だから全部忘れたんじゃない! 憎まれるくらいなら、どうでもいい、無関心な存在でありたかった! わたしのせいでシーゼンが傷ついて、苦しんでるってわかってたから!! だから全部忘れて、どうでもいい存在になろうとしたんじゃない!!」
自分のせいでシーゼンが嫌な思いをしている自覚はあった。だからこそ、苦しかった。リュミエルは目に涙を浮かべ、切々と訴える。
「……助けることも、慰めることも、何もできなくて。苦しくて、息が詰まりそうだった。だから、忘れようとしたの。シーゼンのこと、全部」
無力感。世界を救った勇者には実に不似合いな単語だ。しかし、リュミエルは己の無力を痛感していた。他でもないシーゼンに向かって。
「そしたら、もう何も考えなくて済むでしょ? わたしがシーゼンのこと忘れたら、シーゼンはわたしのことに興味を失くすもの。シーゼンにとって、わたしなんて憎まれるだけの、鬱陶しくて意味のない存在だから」
「……勝手なこと言うな!!」
今まで黙ってリュミエルの言い分を聞いていたシーゼンが激昂しながら反論する。
「ああそうだよ、認めてやる! 俺はお前なんて大嫌いだったさ! お前はどうしようもない馬鹿でお人よしで、すぐ他人に騙される偽善者で、どんなに辛いことがあっても涙一つも零さない強情っぱりで!!」
口の悪さは相変わらずだが、その瞳に憎悪の光はない。リュミエルはそんなシーゼンに気圧されながらも、彼の言葉を聞く。
「俺が裏切って敵側に情報流した時だって、お前は俺を許したよな! 何でだよ、何であんなことされて許せるんだよ! 俺を信用するなよ、その証拠に俺はお前をまた裏切って傷つけたじゃないか!!」
理解できない存在。リュミエルをそんな風に称した魔法使いは、なぜか泣きそうな声で叫ぶ。
「それでもお前は黙って俺をまた信じて! いい加減わかれよ、俺はそんな奴なんだよ! お前とは違うんだ、お前の傍にいていい人間じゃないんだよ! 憎らしかったさ! お前は俺の欲しいもの全部持ってる! 羨むなって言う方が無理だろ! だから傷つけたんだ、ああそうだな八つ当たりだよ悪いか!?」
シーゼンは己の罪深さを知っていた。だから、リュミエルが眩しかった。自分とは正反対の少女を、ただ認めることができなかった。
「俺はお前を何度も傷つけたのに、お前は俺をまた許して! 何なんだよ、馬鹿も休み休み言えよな!! どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ!!」
「ば、馬鹿になんて――」
「してるだろ! 下らない情けをかけられた俺が、どこまで惨めだったか! 忌まわしい魔王との契約の証を、お前になんかに消された時、俺がどんな気持ちだったか!!」
シーゼンの言い分にリュミエルも反論しようとするが、それはシーゼンの叫びにかき消された。
「お前は、どこまでもお人よしの偽善者で、甘ったれで。誰も彼も、無防備に信用して! 何でお前なんだよ……なんでお前は俺を憎まないんだよ!!」
「そんなの、わからないわよ!!」
リュミエルは今度こそ喉が潰れるのではないかという勢いで反撃してきた。
「裏切られて、わたし、傷ついたわ! 味方だと思ってたのに、信じていたのに、裏切られて! すごく辛かった!!」
切々と、今までの旅路での傷跡を語る。辛かった、苦しかった、逃げたかった。それでも、それでも。
「でも、憎めなかったの! わたし、あなたの欲しいもの全部持ってるって、引け目を感じてたから。嫌われて、憎まれて、裏切られて……それくらい、あなたを傷つけたって自覚があったから。わたしには信じることしか……あなたを信じるしかできなかった! それ以外に何もできなかった! 選択肢なんて一つもなかった!!」
それは、リュミエルの贖罪だ。あがなう罪を背負い、仲間を救おうと必死な勇者の贖罪。
「憎みたくなんてなかった! シーゼンは仲間だもの! 信じたかった! それしかできなかったんだもの、それ以外に何もできなかったんだもの……」
ぽろぽろと、その翡翠色の瞳から大粒の真珠のような涙が零れ落ちる。これでシーゼンは二度、リュミエルの泣き顔を見たことになる。ずっと見たいと思っていた勇者の泣き顔を、二回も見てしまった。
「もう、何もわからない……シーゼンは、わたしをどうしたいの?」
静かな声。それは、死を前にした殉教者の声に似ていた。
「わたしが、死んでしまえば救われるの?」
時が一瞬だけ凍りついた。リュミエルはただ、邪気のない、無垢なる笑みを浮かべる。
「……だったらね、もう、いいよ。もう、わたしのやることは終わったし。これからどうするかなんて、何も考えてなかったし、ちょうどいい」
リュミエルは笑う。痛々しいとも、どこまでも清らかとも取れる微笑を浮かべて。
「ねえ、シーゼン。わたしがこの世界から消えてしまえば、あなたは少しは救われるのかしら?」
「……っ!!」
力なく微笑むリュミエルは、まるで何かが消え去ったように小さく見えた。本当にこれが魔王を倒した勇者なのか、英雄と呼ばれる少女なのか。
「……ふ、ざけんなよ」
今度という今度はシーゼンの堪忍袋がぶち切れたようだ。
彼女の言い分は何もかも理解できない。今までも、そしてこれからも。
何より今回のリュミエルのそれは理解の範疇を超えている。絶対に認めてはならないものだ。
「俺に憎まれたくらいで何だ!! お前らしくない! ふざけんな、俺は認めないからな!!」
「……シーゼン」
「何だよ、その顔! お前の泣き顔、気持ち悪いんだよ! 今泣いたら、その顔炙ってもう二度と涙も流せない顔にしてやるからな! 本当にいい加減にしろよ! 俺をここまで面倒に巻き込んで、散々引っ掻き回して、逃げるのか!? 絶対に許さない、それだけは認めてやるもんか!!」
殺すつもりなんてない。第一ここまで派手に巻き込んだ挙句、自殺されてはシーゼンからすればたまったものではないのだろう。シーゼンは己の持てる全ての感情をリュミエルにぶつける。
「疲れたくらいで何だ! 休んでもう一回地獄でも見ろ! それでももう生きていたくない何て言うんだったらな」
ぐい、とシーゼンはリュミエルを抱き寄せた。しかしそれは恋人にやるような優しいものではなく、まるで人攫いのような乱暴な仕草だった。
「お前の全部、俺に寄越せ」
冷徹に、シーゼンはそう告げる。シーゼンの顔が近い。こんなに近いのは始めてだと、リュミエルは戻った記憶からそう悟った。
「自覚してるんだろ。俺の欲しいものを全部持ってるって。類稀なる絶大な魔力。呪われた武具にも魅入られない、強い精神力。世界各国に与える巨大な影響力。そして、誰にも束縛されない強い意志」
それはシーゼンが欲しくてたまらないものだ。リュミエルにとっては、別段当たり前にあったものだ。
「全部、捨てるくらいなら、俺に全部寄越せ。俺の隣で、一生こき使ってやるよ。下僕として、永遠にな」
「ふっ、あはは……」
最低な宣言に、リュミエルは声を上げておかしそうに笑った。そして、いつもの調子で言い返す。
「そんなの、絶対に嫌。魔王に身体を乗っ取られた方が、全然マシ」
「どういう意味だよ」
「……言葉通り。本当、シーゼンって」
一拍置いて、リュミエルはシーゼンを見つめて告げる。
「どうしようもない、お馬鹿さんね」
「ケンカ売ってるのか?」
「……ううん、馬鹿なのはお互い様。わたしも、本当に大馬鹿だわ」
「そうだな、馬鹿だ。自分で死ぬとかふざけたこと言って。今度言ったらブッ飛ばすぞ」
ぎろりとシーゼンはリュミエルを睨んだ。しかし、別に怖くない。それはリュミエルがすでにシーゼンがどんな人間なのか理解しているからだろう。
「俺の傍にいろ。お前みたいな危なっかしいの、ほっといたらのたれ死にそうで恐ろしい。あと、常に笑っとけ。お前の泣き顔、一回でいいから見てみたいと思ったけど気持ち悪い」
「……どうして?」
あんまりな言いようではあるが、リュミエルは気にした様子もなく首をかしげる。口癖のように言っていたそれを撤回するなんて、どうしたというのだろう。
「お前が泣く顔なんて、気持ち悪いだけだ。寒気と吐き気がする。リュミエルには能天気なアホ面が一番似合う。元々がどうしようもないからな」
「……シーゼン」
もしかしてシーゼンは慰めてくれているのか。実際に慰めているとはとても思えないような言い分であるが、それでもリュミエルを慰めようとしている気概は伝わってきた。
今までのシーゼンでは考えられないことだ。それに少し感動していると、シーゼンは慌てて訂正する。
「べ、別に慰めとかじゃなくて、単なる事実を伝えているだけでだな!! ああもう、本当お前ってば調子が狂うなオイ!」
「うん、わかってる。それでね、シーゼン。お願いがあるの」
「何だよ。下らないことだったらぶっ飛ばすぞ」
上目遣いにシーゼンを見上げ、シーゼンの心臓の音が早まるのを感じながらリュミエルは微笑む。
「大したことじゃないの。さっき、傍にいろって言ったでしょ?」
「ああ、それが何だよ」
「だからわたしのこと、離さないで」
静かな声で、彼女は言う。シーゼンはそれを聞いて、蛇に睨まれた蛙みたいな顔をして硬直する。
「そして思いっきり抱きしめて、もう二度と離さないで」
それに意地っ張りな魔法使いが答えたかどうかは、彼に懇願した勇者しか結果を知らない。


BACK
TOP