あなた、わたしのことが嫌いなのよね。
うん、知ってるの。気付いちゃった。
初めて会った時は気付かなかったけど、わたしに良い印象を持っていなかったわ。
最初に出会ったのは、いつだったかしら。二年前、いえ三年前ね。
あなた、酒場で暴れまわって、その街の騎士にケンカを売って。それをわたしが止めようとして、なぜかあなたと魔術勝負することになったのよね。
今思い出しても、あなたは本当に鼻持ちならない、二枚舌の大嘘つきで手癖が悪くて、近年まれに見るくそ生意気な魔法使いだったわ。
そんな顔を歪ませないで。あなた顔はきれいなんだから、唯一の取柄を自分で潰すような真似はよしてちょうだい。え、わたしのせい? そうなの、それはごめんなさい。
それで、何を話したかしら。……ああ、そう。あなたに会った時のこと。
うん、そう。確か、わたしの勝ちだったのよね。でも、わたしは勝った事よりも、そこの酒場に出入りできなくなって、お尋ね者になるんじゃないかって心配だった。
その後、あなたとはファルマーンの遺跡で再会するのよね。ええ、あれは驚いたわ。何と言っても最深部で眠っている竜を、無理やり起こして怒らせて。まったく、何て無謀な人なんだろうと呆れ返るしかなかった。
そのことについては、もう時効だから気にしなくていいけど。あの遺跡の最深部であった事をきっかけにして何の因果か、あなたとパーティーを組むことになったのよね。
嫌そうな顔をしないでよ。仲間にしようと提案したのはルジェよ。それを承諾したのはわたしだけ……そんなにわたし達と一緒に冒険するのは嫌だった?
……どうして怒るの。やっぱりあなたって、わからないわ。お互い様ですって? それもそうね。
あなたが仲間になって結構な時間がたってしまったけれど、遠くへ来てしまったと思わない?
おとぎ話でしかなかった妖精郷に、黄泉の世界へ通じる門に、凍ったままうち棄てられた廃都に、全ての命が生まれた世界樹の泉に。
物語の中でしか登場しない場所を探して、何度も危険な場所へと足を運んで、時には背後から脅されて、裏切られて。
ふふ、その顔おかしい。そうよ、何度も危ない目に合ったのはあなたのせい。身体を蝕む呪詛を受けてしまったのはあなたが、わたし達を裏切ったせい。
力が欲しくて、誰よりも強くなりたくて。……私達の敵に、魔王に魂を売り払ったのよね。
思い出すわ。あなたは魔王を利用しようとした。わたし達のことも、魔王のことも、誰も信用していなかった。自分ためのだけに行動していたわ。
けれど、最後の最後、魔王と戦っている時に、あなたが力だけのために魔王に身も心もささげようとした時は、驚いたし……悲しかったわ。
頭より体が動いて、あなたの身体を乗っ取ろうとした魔王の魂をはじき出した。邪魔されたあなたは、わたしをものすごい顔をして睨んだわね。
うん、知ってる。理解しているわ。わたしのこと、恨んでるのよね。最後の最後で、最強を手に入れる機会を失わせたわたしを。
それに天に選ばれた力を振るうわたしを、憎んでいるのよね。羨ましいって、嫉妬という感情を抱いているのよね。
っ、痛いわ。爪、立てないで。気の立った猫じゃあるまいし、落ち着いてちょうだい。
……どうして、こんな話をするかって? こんな時だからよ。魔王を追い詰めて、魔界へ封印する最後の旅だからよ。
最後だから、あなたと話したいのよ。いけないかしら。
……なら、どうして最後に話したいと思ったのかって?
教えないわ、絶対に。わたし、あなたにだけは教えないってそう決めたんだもの。
勇者、救世主、聖女、英雄、人類の希望。
彼女を賞賛する言葉なんて、片手で足りないほどのだ。
リュミエル・サンクスタ。それが世界の希望と称された少女の名前だ。彼女と共に付き添い、最後の戦いに参加した魔法使いのシーゼンは、唖然としていた。
空が、歪んだ。
正確には目が痛くなるほどの白い光が、空を覆っていった。それは魔王の待つ時空の狭間が、完全に閉じた事を示していた。
時空の狭間へ足を踏み入れたのはたった一人の少女。
信じがたいことにリュミエルはたった一人で最後の戦いに臨んだのだ。最終決戦の場、硝子で作られた階段の先で全ての終焉が待ち望んでいた。
そして、ここまで共に戦った仲間は、共に最後の戦いへと足を運ぶはずであった。どんな時でも、彼らは常に一緒だったから、最後のその時までそばにいると決めたから。
しかし、そんな勇者の仲間は、他ならぬパーティーリーダーの手によって地上に返された。唱えられる呪文を遮るすべはない。呆然とする中、移転送陣を描き終えた彼女は笑っていた。
そう、笑っていたのだ。優しげに、慈愛を込めて。
音も聞こえぬ世界で、彼女の声が聞こえた気がした。さよなら、というその一言が。
今まで、彼女を憎み羨むしかできなかった魔法使いはぼんやりと空を眺めた。あの空を越えた先に、時空の狭間にリュミエルがいる。
誰よりも憎んだ女が、世界を救うために一人で魔王と戦っている。
「……帰って来いよ」
ぽつりと、シーゼンは呟いた。
「ふざけんなよ、勝ち逃げのつもりか……?」
喉の奥が熱い。出てくるのは怒り。リュミエルに対する苛立ちだ。
何もかもが腹立だしかった。
自分を最後の戦いに連れて行かなかったリュミエルが。
戦いに挑む前夜、最後に話したあの少女が。
自分の心の内を、どうしようもないほどかき乱す彼女が。
シーゼンは、怒りを込めて天空に向かって唾棄するかのように叫ぶ。
「こんなの、絶対に認めねーからな!! 帰って来いよ、リュミエル!!」
そして、この叫びは天に届いた。
空から、硝子を砕いたような涼やかな音が響き渡る。
一陣の風。それに誘われるように空を仰いだ。それはまるで神々がシーゼンの叫びに、もしくは人々の祈りに答えたかのようでもあった。
空の最果てできらりと何かが光った。空から光がいくつも零れ落ちいた。まるで雪のようにひらひらと落ちるものは一体何なのか。
「あ……」
ひらりひらりと落ちる光の雪の中、一際大きな光の塊が落下していく。
その光の帯に包まれているのは、まさか。
「リュミエル……」
シーゼンは走った。出てきた単語は、どうしようもないお人好し勇者の名だった。
もう、どうでもいい。プライドも何もかなぐり捨てて必死に走った。普段なら走ることなんてない。けれど、今日に限ってはシーゼンはなけなしの体力を使って追いかけた。
シーゼンと同じ事を思ったのかリュミエルに地上に追いやられた仲間達も、光の塊を追いかけて走る。
そして、光が降り立ったのは、小さな丘の上だった。シーゼンは息荒く涙目になりながらもそこへ向かった。
「リュミエル!!」
リュミエルの幼馴染みの神官、ルジェが光の中にいる少女の姿を見つけて、駆け寄った。
光に包まれていたのは、紛うことなくリュミエルだった。
淡い光の中で死んだように眠るリュミエルの身体はぼろぼろだった。聖なる銀と呼ばれるミスリルで作った鎧は肩の部分が完全に削り取られ、妖精に祝福された宝冠も一部が砕け散り、手のひらは凝固した血で汚れていた。唯一無事だったのは、首からさげた懐中時計。それだけが無傷のまま、静かに針を動かしている。
リュミエルの美しい金茶の髪の毛は毛先の部分が焦げてちりちりになって、顔は血を失ったせいか青ざめていた。
満身創痍。今のリュミエルの状態を一言で表すなら、それだけで充分だった。
「……う、あ……」
それでもリュミエルは息があった。身じろいで、何かを訴えるかのように弱々しく虚空に手を伸ばす。
生きている。生きているのだ。ルジェはそれが嬉しくて、早く彼女の無事を確かめたくて、リュミエルに詰め寄る。
「リュミエル!」
ルジェは驚いたようにリュミエルを抱きかかえ、必死に揺さぶった。
「ねえ、リュミエル! 起きて、起きてよ……ほら、みんないるよ、ねえってば……」
「う、ううん……?」
ルジェの声に応えるように、リュミエルの瞼がゆっくりと開いた。翡翠色の眼が太陽の光を浴びる。
ぱちぱち、と何度か瞬きして瞳が動く。起き上がろうとしたが、傷が深いのか眉をよせて苦しそうな表情になる。
傷はある。どれほどの傷を負ったのか仲間達にはわからない。
しかし生きているのだ。リュミエルは確かに生きている!
「リュミエル!!」
「わっ!?」
幼馴染みが目を覚ましたことがよほど嬉しいのか、ルジェは遠慮なしにリュミエルに抱きついた。
「リュミエルだ、リュミエルだ!! あはははっ」
「い、痛いよ、ルジェ……」
言いながらもリュミエルはルジェを振り払う様子は見せない。痛みに顔を歪ませつつも、どこか嬉しそうだ。
「……リュミエル様、お帰りなさいませ」
傍に控えていた騎士、エスタは己の主人に向かって恭しく一礼した。その顔は普段は無表情だが、今では優しげな微笑みをたたえていた。
「うん。ただいま、エスタ」
「はい」
抱きついてきたルジェをあやし、リュミエルはエスタの手を取って立ち上がる。
そして、シーゼンはリュミエルが立ち上がったのを見計らって、薄情な勇者の前に躍り出た。
言いたいことは山のようにある。小言を一時間言っても足りやしない。いつもいつも自分につっかかってくるルジェも、今回ばかりは何も言ってこないだろう。全面的に悪いのは、どう考えてもリュミエルだ。
「ふん、生きたのか、死に損ない。またその顔を見ると思うと嫌になってくるね」
シーゼンはお得意の口の悪さを隠さずに、率直にリュミエルにぶつけた。
大体リュミエルは今まで散々と自分の邪魔をしてきた。そのくせ単身で魔王の戦いに挑んだ、その魂胆が気に入らなかった。シーゼンはリュミエルに毒づく資格があるし、それが当たり前だと思っていた。
「もっとも、その間抜けたアホ面を拝みたいという物好きは世の中にはいるわけだが。ま、俺だったら金積まれてもごめんだけどな」
「……」
黙り込んだリュミエルを見て勢いづいたのか、さらにシーゼンは続けた。
「何だよ。戦いの最中、頭でも打ってただでさえ悪い頭をさらに悪くしたのか? それなら、ご愁傷様と言うべきか。大体、お前はいつも――」
「……あの」
リュミエルは困惑したようにシーゼンを見た。緊張のためか、懐中時計を握り締める。シーゼンはそれに違和感を覚えた。変だ、何かがおかしい。
「あ」
そして、シーゼンはそれにすぐ気付いた。
何故彼女は言い返してこないのか。いくらリュミエルが底抜けのお人好しであるとしても、こちらが口汚く罵れば反論するはずなのだ。
そろそろ反論してくると思いきや、リュミエルの反応はシーゼンの予想とはまったく違った。
誰しもが予想もしなかった反応を返してきたのである。
「あの、あなた……誰? ルジェ達の、知り合いか何か?」
リュミエルの口から紡がれたその一言。それはシーゼンを激昂させるのに相応しく、この場を混乱させる文字通りの爆弾発言だった。
何はともあれ、落ち着こうと宿場町に戻ってきた勇者一行は酒場でリュミエルの知識鑑定を行った。
ルジェはまず、重々しい金色に輝く竜が装丁された古書を取り出した。
「これは何かしら?」
「んっと……竜の書。古今東西の竜について綴られて、有名どころは古の森に住むとされる賢竜ヴォルスング、霊峰を守護する雪竜ホルン、霧を彷徨う骨竜ジャディスね」
「では、こちらは?」
そう言ってエスタは己の命にも相応しい、炎の意匠が施された大剣をリュミエルに差し出す。
「えっと、この剣は火精剣メルトニカ。エスタが焔帝ディアゲイルとの勝負で勝った証としていただいたものね」
「……こっちはどうなんだ」
ならば、とシーゼンは白い杖を取り出す。きらきらと粉砂糖をかけたようた尖った角飾りが特徴的な杖だ。持ち手部分に施された一角獣の細工を見て、リュミエルは楽しげに告げた。
「それは聖杖ユニコーンワンズ! 希少なユニコーンの角を聖水で清めて、持ち手をミスリルで加工したものをあしらえた一品。死者を一度だけ蘇らせることができると言う伝説の杖よ」
「じゃあ、わたしは誰?」
不機嫌そうなシーゼンを押しのけて、ルジェは今度は自分を指差した。
「ルジェ・アルジェ・リリィ。わたしの幼馴染みで、薬草のスペシャリスト。辛いものが大好きなせいで、わたしを何度も困らせるけど。とても大切な親友でしょう」
「私のことはわかりますか?」
ならば、と今度はエスタがリュミエルの前にひざまずきながら問いかける。リュミエルはそんな彼の生真面目な動作に苦笑しながら答えた。
「もちろんよ、エスタ・インフィネア。貴族の出でありながらその剣の腕を生かすため、あちこちを旅し、悪党を討伐し多くの民に慕われる騎士の鏡のようなあなたを忘れるわけないじゃない」
「……ほう、大した記憶力だよ、本当に」
何やら頬とコメカミをひくひくさせながら、シーゼンはリュミエルを思いっきり睨んだ。
本当に彼女の記憶力はたいしたものだ。今まで立ち寄った街の名前、倒してきた敵将、旅の途中で手に入れた伝説級の武器や防具について、ほぼ完璧と言っていいほどに記憶していた。
「じゃあ、これで三度目の質問だ。いい加減こんな下らない質問をするのも飽き飽きなんだけど、お前の頭に合わせてもう一度聞くぞ!」
シーゼンは手にした聖杖ユニコーンワンズをリュミエルに突き付け、苛立ちを隠さずに問いただした。
「俺の名前と出会った時のこと! 簡潔にわかりやすく、三百字以内にまとめて答えろ!!」
「……えっと」
リュミエルは顎に手を当てて、考え込んだ。
「んーと……」
眉間に皺が寄り、奇妙な緊張感が周囲を包む。
「…………うーん」
「覚えてないのか!? 俺のことだけ! この俺様だけを!?」
戸惑いつつ一生懸命考え込むリュミエルの姿を見て、シーゼンはだんだんと床を踏みつけ歯噛みしながら憤慨した。
そう、たった一つだけ。本当に一つだけの欠落。
リュミエルはある人物のことを覚えていなかった。彼との出会いも、遭遇した事件も、彼自身を含めた何もかもを。
「この俺を、世界一の魔法使いと誉れ高いシーゼン・ラスヴェルグを忘れるなんて! お前はどこまでも最悪だな!」
「ご、ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃない!」
「えっと、じゃあ、ありがとう?」
「お礼を言ってどうするんだよ! 本当にわけわかんないな、お前!!」
「まあまあ、落ち着いて」
怒り狂うシーゼンと困惑気味なリュミエルの間にルジェが割って入る。
そして、ルジェはにこにこと微笑みながら、シーゼンの肩を叩いた。
「別にいいじゃない。リュミエルがわたしのことを忘れたわけじゃないんだし」
「俺のことは忘れていいって言うのか!?」
それにルジェは笑顔をまったく崩さずに。
「うん。全然。まったく持って大丈夫。むしろ、忘れて良かった万々歳って感じ」
「このっ……!」
ルジェのあんまりな言い分に、一人怒り狂うシーゼン。リュミエルは顔を真っ赤にするシーゼンに、おずおずと声をかけた。
「あの、あなた、わたしの仲間……よね? だったら、あなたと出会った時の事とか、一緒に旅したこととか、色々教えてほしいの」
「…………」
記憶喪失者としては至極もっともなリュミエルの提案に、シーゼンは顔を曇らせた。シーゼンだけではない。ルジェでさえ露骨に顔を歪ませて、無表情のエスタも困ったように眉間に皺を寄せた。
「あ、あの?」
「うるさい! 俺から話すことなんてない!」
シーゼンは荒々しく椅子から立ち上がり、そう吐き捨てながら酒場から出て行ってしまった。わけがわからずに、条件反射で追いかけようとする。
「あ、待って!」
「追いかけなくていいよ、リュミエル」
ルジェは不機嫌そうな顔をして、リュミエルを止めた。その顔にはシーゼンに対する嫌悪感がありありと浮かんでいる。
もしかするとルジェはシーゼンのことが嫌いなのだろうか。シーゼンという人物の事を何も知らないリュミエルは戸惑いを隠せない。
そもそもルジェは感情の起伏は少し激しい所はあるが、そう簡単に他人を邪険にすることはないはずなのだが。
「……思い出せないなら、忘れたほうがいいわ。リュミエル、あいつに酷い目に合わされたもの」
「酷い目?」
まったく覚えがない。リュミエルは首をひねって考えてみるが、やはり思い出せない。
「……本当に忘れちゃったんだね。シーゼン自身のことだけじゃなくて、あいつのしてきた事全部」
「……」
何やら深刻そうな顔をする親友に、さすがのリュミエルも不安になった。
「……わたし、あの人に何かされたの?」
その問いかけに、ルジェは大きなため息をついた。
「それはまず、あいつの数少ない友達の魔法医に聞いた方がいいと思うわ。ついでに記憶喪失のことももっと詳しくわかるかもしれない」
ルジェの提案により、何はともあれリュミエルは魔法医の元へ向かうことにした。
シーゼンという魔法使いに関してだけわからないことだらけで不安ではあったが、すっぽり抜け落ちた仲間でもあるシーゼンのことがリュミエルには何よりも気になった。
「だっはっはははははは! ええ、マジで? リュミエル、君、ほ、本当にシーゼンのこと忘れたのか?」
おかしくておかしくて仕方がない、と自称腕のいい魔法医は腹を抱えて笑った。その声は彼の診療所のお隣に響き渡るほどに大きかった。
爆笑している彼の名はアーガリス。銀縁の丸眼鏡が特徴的な、若い男だった。
一般的な魔法医というのは、魔術と医学の両方を学び、イングスベルドという学問の都にあるアカデミーから資格を得ねばならない。
リュミエルは、彼とどうやって出会ったかは記憶にないが、彼が一体どんな性格で、何ができるのか知っていた。
魔法医としての腕はリュミエルの知る限り一番優秀で、その実力は王室専属の医者にさえ匹敵する。しかしその奔放な性格のため、面倒だからの理由で王室に仕える事を拒んだ変わり者と記憶している。
奇妙なものだ。リュミエルは彼と出会った覚えはないが、彼がどんな人物であるか理解している。まるで小説の登場人物を先読みしているかのようだ。
「あー、おっかしい……リュミエル、君は本当に最高だ。素敵だよ、こんなに笑いを俺にもたらしてくれるのだから」
事情を説明した途端、爆笑したアーガリスはやっと落ち着きを取り戻したらしい。テーブルの上においていた薬草茶に口つける。
「その、それでわたし、彼の記憶だけが抜けているみたいなんです」
「ああ、呪いかな。記憶をいじるような、そんな複雑そうなものはなかった気がするけど」
すう、とアーガリスはリュミエルの腹に向かって手を伸ばした。触ることが目的ではない。彼女の腹に向かって、手のひら大の宝石をかざす。
濃い緑色のいびつな楕円の形をした宝石をリュミエルにかざすと、その宝石は清浄な光にあふれた。
その光をリュミエルの腹から胸、胸から喉、喉から顔、そして頭にかざすと彼は小さく呪文を唱えて光を消した。
「特に魔術的な損傷はないね。呪いとかの心配は要らない。魔力の巡回経路に傷はついていないし、自己治癒能力が落ちたわけでもなさそうだ」
先ほどの爆笑していた姿とは打って変わって、アーガリスは手元のカルテにリュミエルの症状を書き込んだ。羽ペンで書かれたそれは、リュミエルの知らない言語だった。
「ただ、さすがに記憶に関しては俺の管轄外だ。精神的なものもあるし……念のため、滋養強壮の薬草茶と気分を落ち着ける室内香でも渡すから、ちょっと待っててくれ」
「はい」
アーガリスは奥の戸棚に置いてある巨大なガラス瓶から乾燥した葉っぱやら花びらを取り出して、石臼でそれを轢いて何かを作っている。
リュミエルはぼーっとしながらそれを眺め、色々と考えた。
自分の記憶のいくつかが消えているというのは、やはりシーゼンという魔法使いに関ることばかりだった。
故郷の村から旅に出て、魔王を倒すと言う指名を受け、それを果たしたのはいいが、それまでの旅路の所々が空白なのだ。
繋ぎ合わせで作ったばらばらな記憶。冷静に筋道を立てて記憶を追ってしまえば、自分でおかしいと気付くのにさしたる時間は必要なかった。
「はい、どうぞ」
「あ……」
考え込んでいると、アーガリスからお茶の入ったマグカップを渡された。ふう、と吐息をマグカップの中に向かって吐く。リュミエルは猫舌なのだ。
「あの、アーガリスさん。わたし、あなたのことは知ってるんです。でも、なぜかあなたと出会った時の記憶がないんですけど、これはどういうことでしょう?」
マグカップを受け取りながら、リュミエルは神妙な顔をしてアーガリスに問いかけた。
それは彼という人格を知っているし、おぼろげながらも何度かお世話になった記憶はある。しかし、それらは全て何かが抜け落ちているのだ。
アーガリスとの出会い、その経緯。彼に関する記憶の所々が、虫食い状態になっているのだ。
彼に呪いを解いてもらうために何度か足を運んだ記憶はある、しかしそのいくつかの記憶は空白だ。決定的な呪いを解いてもらった記憶はあるが、どうして呪いにかかったのか、どうして呪いをかけられたのかわからない。リュミエルの持つアーガリスという人物の記憶は、あちこちが消しゴムでかき消されたかのように希薄だった。
「俺と出会った記憶がない? へえ、それは変だな」
「それから、呪いをかけられてその解呪のために訪問したのは覚えています。けれど、どうして呪いをかけられたか覚えてないんです。前に診断してもらった時の記憶も、あやふやで。何だか怖くて」
「……」
アーガリスは考え込むように腕を組んだ。いくら優秀な魔法医としても記憶喪失を治すのは難しいのだろうと、リュミエルは何となく察した。
もちろんアーガリスとしては助けてやりたいのは山々だが、記憶喪失という症状は魔法医としてはかなりの腕を持つアーガリスの専門外だ。
人の記憶とは脳から発する電気信号によって構成されるものであり、その構造は複雑にして繊細。いまだにその神秘は解き明かされていない。言ってみれば触るな危険というところか。触れればどうなるのか、触れた人間も触れられた人間もどうなるかわからない。そういうものである。
「シーゼンのことを忘れて、俺のことも切れ切れに忘れている、か」
アーガリスの言葉にリュミエルはうなずく。
「他には? 例えば、そう、その懐中時計。それをどこで手に入れたか覚えてる?」
「これはイングリドの森に住む賢竜さまからいただいたものです」
精緻な細工の彫られたそれを撫で、リュミエルは懐中時計を手に入れた経緯を説明する。
「過去と未来を司る貴重な代物で、世界に二つとないとか。いつか役立つ時がくると、そう言われて」
自分の装備品についての記憶ははっきりとしている。どこで手に入れたのか、どんな代物なのか。
この銀の懐中時計は時を司る魔法の道具だ。持ち主に時を自在に操る力を与える。しかし、その効果は一度だけだ。リュミエルの覚えている限り、使用した記憶はない。記憶喪失の身の上ではそれはまったく信用できない思い出ではあるが。
「どうしたもんかね……シーゼンだけを忘れているならどうでもいいが、俺の事を切れ切れに忘れているとなると悲しいな」
リュミエルの記憶喪失と言う症状にアーガリスは呻いた。リュミエルは記憶や精神の繊細さを知っているため、何も言えなくなる。
確かに他人の精神の中に入り込む秘術が世の中には存在しているが、それは医術に使われることはまずない。大抵が悪意を持って利用されるからだ。あくまでアーガリスが魔術的要素を含むものの中で習得したのは、身体組織に害を与える呪詛の解呪と、弱体化した身体の回復術、そして薬草を取り扱う技術と聞く。
それに魔法医とは肉体的損傷を魔術と医術で多少補うことができるだけで、魂とか精神という内的な病気は専門外だ。精神に深く関係する魔術なんて、それこそ大魔法使いと呼ばれる魔法使いくらいしか知らないだろう。そして、それは悪用されることだってある。ゆえに門外不悉の秘術だ。
「……おや?」
ここで、アーガリスはあることに気付いた。
リュミエルは先ほど、どこまで記憶を失ったと言ったのか。
「リュミエル、君はどこまで覚えているんだ?」
「え?」
「俺のことをどこまで記憶していると言った?」
「えっと、訪問した時の記憶。いつかはわからないけど……解呪のためにやってきたことは。それから、一緒にお茶を飲んだ覚えがあります。他に診断をしてもらったことは覚えてるんですけど、何を話したか覚えてません。……本当なら、もっと忘れているのかも」
ちぐはぐな自分の記憶を、リュミエルは必死に手探りに思い出す。ぎゅ、と癖なのか首からかけた懐中時計を握り締めた。
確かに自分は呪いにかかり、それを解呪するためにアーガリスを訪ねた。しかし、出会った記憶はない。確実に覚えているのは、彼を訪ねた時。
そう、彼と初対面の時の記憶がないのだ。すっぽりと出会った時だけが消えている。
その後に診断を受けたが、どんな内容だったのかわからない。お茶を飲んだ記憶もいつのことなのか。虫食い状態の記憶はまるでばらばらになったパズルのピースのようだ。不気味な記憶の空白に、リュミエルは怖くなった。
「なるほど。面白い」
「え?」
アーガリスは何かを思いついたのか机をとんとんと叩き、にやりと不敵に笑った。
「リュミエル、君は完璧主義なのかな。面白いよ。そんな症状もあるんだな」
「え、えっと、一体何が……?」
「簡単だ。俺はそもそも、君とはシーゼンの紹介で出会った」
疑問に満ちていたリュミエルの表情が凍る。
「多分、君は俺のことを忘れたんじゃない。鍵はシーゼンだ、君はおそらくシーゼンが関ること全てを忘れたんだ」
「シーゼン、に関る全てを……」
どくん、とリュミエルの心臓が跳ね上がった。なぜか冷や汗が吹き出た。悪寒が止まらず、心臓の鼓動が一気に早くなる。
シーゼンという魔法使い。その名前がまるで触れてはならぬ破滅の呪文のように聞こえてしまい、知らずに怯えた。
「あいつも嫌われたものだな。あの馬鹿は君のことを嫌っていなかったはずだけど」
「それって、どういう……」
胸を押さえ、こみ上げてくる吐き気を喉の奥へと押しやって、リュミエルは聞いた。
シーゼンとはどんな人物なのか、親友のルジェは彼を嫌っていた。どんな人なのか聞こうとしたが、ルジェは頑なに話そうとしなかった。
エスタにも問いかけたが、自分の口からは何も言えないと沈黙を守り続けた。
リュミエルは仲間の反応に困惑しつつ、本人に話を聞こうとしたが門前払いを喰らった。親の仇にでも会った時にしか見せないような激しい敵意を向けられたので、結局聞くことができなかったのだ。
けれど、本当はうすうす感づいている。あのシーゼンという魔法使いに近づいてはならないと、本能が告げる。
近づけばきっと傷つくと、自分の中の誰かが叫ぶ。
「そのままの意味だけど。あいつは、君の事を嫌ってはいなかった。むしろ好いていた、といった方がわかりやすいかな。それを知った時の反応は実に面白かった。顔を真っ赤にして反論して、何をあんなに認めたくなかったのか」
アーガリスは腕組しながら顎に手を当て、考え込む。リュミエルの顔から血の気が引いていることに、まだ気付いていない。
指先が真っ白になるくらい強く、胸元にある懐中時計を握り締める。
「君と旅してから、あいつは少しは変わったよ。根本的な自己中な性格に変化はないけど、それでもさ……って、リュミエル、どうかしたか?」
「……あ、わた、し……?」
「リュミエル?」
自らの震える手のひらを見つめるリュミエルは、どう見ても様子がおかしい。アーガリスが声をかけるが、反応はない。
「リュミエル?」
「……あ」
もう一度呼ぶと、瞳に覇気が戻った。アーガリスは息をつく。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫……。また、来るわ、さよなら」
まるで幽霊のように蒼白になった唇でそう告げる。頭が痛い。それを誤魔化すように懐中時計をまた握り締める。こうすることで頭痛が少しでもおさまればいいと思った。
なぜだろう、とても大切なことを忘れた気がする。とても大事なものを捨てた気がする。
それを自覚した瞬間、身体から力が抜けていく。すう、と身体から大事なものが流れ落ちていく。触れてはならないものに触れてしまったせいだろうか。
まるで石化の呪いにかかったように、身体の動きが鈍い。何かに取り付かれたかのように、動けない。
一瞬死ぬのかな、とそんな考えが彼女の頭を過ぎった。
「リュミエル!?」
その叫びを聞いたのを最後に、痛みも何もなくリュミエルの意識はただ闇の中へとまっさかさまに落ちていった。
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