ガソリンの臭いがした。
白市 幸喜(シライチ コウキ)はむくりと新聞紙の布団から起き上がる。今は何時だと腕に巻いた時計を探る。実に不愉快だ。彼は寝起きを起こされるのが嫌いだ。もっとも、人類の大半がそれに当てはまるのだろうが。
だが自分の精神的な領域を汚された気分になったコウキは、忌々しげに立ち上がる。空の色はどこまでも暗い群青色。腕時計を見ようとするが、暗いので見えない。なので、さらに苛ついた。
手元に置いてある鉄パイプを持ち出す。建設途中だった家の現場の一部から掻っ攫ったものだ。最近はヨーロッパ地方にありそうな一軒家が流行らしい。
何でこんなものを持っていると聞かれれば最近は物騒なのだとコウキは答えるだろう。日本の安全神話はただの幻想である。
今から数時間前にはわざと声をかけて、それに気を取られている隙に財布を盗もうとしたホームレスがいた。仕返しとばかりに脇腹をこの鉄パイプで殴りつけた。悲鳴を上げ、地面に転がる姿を見ても何の感慨もない。とりあえずこの公園で世話になる、と言ってやったが、ひんひんと泣いて震えるだけでホームレスは何も答えなかった。
礼儀知らず、と吐き捨てながら腹を蹴り上げると、そいつは喉から絞りあげるような叫びを上げた。鬱陶しくなったので、コウキはそいつが視界に入らないような場所を探し、新聞紙を集め、ベンチの上で眠ることにした。
そして、目覚めたと同時にこれだ。ガソリンの独特に悪臭。コウキの低い沸点は爆発寸前だった。中途半端な眠気による鈍痛が走っているこめかみを押さえ、コウキは臭いの元を探した。
臭いの先はどぽどぽという音がした。どうやら誰かがガソリンを公園にばら撒いているらしい。放火魔だろうか。
「何やってんの?」
出てきた声は、本当に疑問のために生まれ出でたような声だった。
どっぽんっ、とガソリン巻きは振り向いた。タンクは中々大きく、子供が持ち運ぶのに四苦八苦しそうな大きさ。いわゆる普通のお家庭にありそうな備え付けの代物だった。
どうやら目の前にいる、高校生くらいの男が注いでいるらしい。目を凝らして見ると、水色のテントがあった。
それはホームレスの手作りテントだ。コウキは始めてそれを見た時、人の創意工夫に素直に感心したものだった。
そのテントは公園の木と突き刺した棒を利用して、紐でつなぎ合わせ、ビニールシートで固定したものだ。それをダンボールやペットボトルなど、何重にも重ねておく。こうして見ると、人間の知恵は実に偉大だと思う。あり合わせのものであっても家は作れるのである。
「ねえ、何してんの?」
そいつはガソリンを撒いていた。それは見ればわかる。しかし、寝起きの鈍い頭では何がしたいかわからない。
ガソリンを撒く。そんなことすれば危険だ。小学生だって知っている。引火すれば爆発し、大怪我する。こいつは心中自殺の志願者なのだろうか。
「ゴミを燃やしてるんだよ」
ガソリン撒きは良く見ると、首元にマフラーを巻いていた。
青いチェック柄はブランド物らしく、いかにも高そうだ。何でそんなことが分かるのかと聞かれたら困るが、何となくこういう奴の身に着けている代物は値段が高い傾向にあるというのがコウキの数少ない持論だ。統計も取っていないため、まったく確証はないのだが。
「ゴミ? そのテントか?」
確かに普通の家で暮らしている人間にとってはゴミそのものでしかないだろう。しかし、そこに住んでいる人間がいるのだ。それをゴミ呼ばわりとは一体どういうことなのか。
「ゴミだよ、お前も見てるんだろ。あいつらだ、この公園を汚くしてる」
「はあ」
どうやら彼はホームレスの事を言っているらしい。コウキは適当に相槌を打つ。そしてその公園を汚くしているという言い分については良くわからない。
彼らにとって公園とは家なのである。自分の家なのだから、と好き勝手にゴミ屋敷にする人間もいるが、ホームレスにとって公園は家であると同時に生活の場だ。
意外かもしれないが、この公園は確かにホームレスの溜まり場だが、ゴミは意外に少ない。彼らの生業は廃品回収で、ゴミ集めは彼らにとって生きる術なのである。
なので、ペットボトルや空き缶類は意外に少ない。それに、子供好きの中年男性がリーダーなせいか、性犯罪もないのだ。もっとも、財布を狙うハイエナのような卑しい連中はまったくいないわけではないのだが。それでもこの公園は、前にコウキが寝泊りしていた場所に比べれば百倍ましだろう。
ちなみにコウキが一度寝泊りしていた路地裏では、男相手に一回いくらと聞かれた。聞いてきた奴にコウキは温情か非情か、鉄パイプを使わず自らの足で股間に一撃を喰らわせた。
それはともかくとして、コウキは改めて反芻する。ゴミとは邪魔なものである。しかし、コウキにはこのゴミの定義がホームレスには当てはまらないような気がした。
下底辺にいる彼らは、きっとコウキの知らない所で生活に役立っているはずなのだ。彼らの存在全てが消えたら、おそらく社会の歯車のひとつが錆付くのではないだろうか。なぜならそのホームレスを含め、社会は回転し続けているのだから。
「社会のゴミを燃やすんだ。ほら、わかったらどっかいけよ」
意外にもガソリン撒きはコウキのことを見逃すらしい。
コウキはその浅はかさに大いに呆れさせられたが、ならいいと背を向ける。別にホームレスが燃やされようと、テントが破壊されようとコウキにはどうでもいい。殺したければ殺せばいい。そして、後に思い知ることになるのだ。ゴミを捨てるにしても、用法を守らなければ警察に文句を言われるという事を。
やれやれと肩をすくめ、コウキは新聞紙の布団をかぶったベンチのベッドへ戻ろうとする。ここでガソリン撒きを責めないのは、コウキの人間性を物語っているだろう。
だが、マフラーをたなびかせた男は、コウキの本性も行動性も何も知らない。ゆえに、行った。
「……ハッ、ばぁかっ!!」
ゴがッ、と形容しがたい音がした。くらんくらんと頭が痛む。何が起こったのかと振り返ると、そこには嘲笑を浮かべるガソリン撒きがいた。
「バカじゃねえの。こんなん見られて誰が見過ごすかよ。テメエも一緒に燃えとけよ」
どうやらガソリンの入っていたタンクで殴られたらしい。中身があるのか、ぽちゃん、とかすかに水音が聞こえた。じっとりと、ガソリンがシャツにじんわりと広がる。背中あたりから香ってくる鼻につく悪臭に、コウキは露骨に嫌そうな顔をした。
「どうせ未来も何もないストリートギャングとか、そんなんだろ? 学校に居場所なくて、いじめられてんのか? ご愁傷様だな!!」
マフラーを弄びながら、男は勝手にコウキの想像上の過去を嘲笑う。残念ながらコウキはこれでも普通の高校生で、友人はいる。学校でいじめもないし、部活にも参加していた。ただ、何か気分が乗らないという理由に退部し、周囲から変わり者と称されているのは否定できない。するつもりはない。
そして現在、様々な事情から学校に行くことができなくなったのは事実だが、男の想像力はそこまで及ぶことはない。
彼はどうやら他人を見下して、それに優越感を感じるタイプらしい。コウキは頭を殴られてふらふらする中、そう結論を出す。
「う、るさい」
出てきた言葉は、それだけだった。無理をして言っているのではない。
不愉快だ。真夜中にたたき起こされ、ガソリンの臭いが染み付いた。わけのわからない理論をまくし立てられ、放火しようとする男。
コウキは手に持っていた鉄パイプを振り向きざまに、鋭く深く、打ち付けた。
ごしゃっ、という音がする。コウキは狙いを定めて目の上側、眉あたりを殴打した。そのせいでぐらりと男の身体が揺れる。そして、その衝撃でどしゃあっ、と地面に打ち伏せる。何が起こったのか、わかってないのだろうか。男の目の瞳孔が見開かれる。
それを確認すると、コウキは大きくもう一度鉄パイプを振りかぶる。
鈍い衝撃がコウキの手のひらに広がる。二度目の殴打に、男の額には血が流れ落ちた。きっと彼は朦朧とする意識の中、反撃されたのかすらわからないのだろう。言葉にならない言葉で呻く。
「……うるさいよ、あんた。とりあえず黙ってな」
冷静な声。凍えるように冷たいわけでも、威圧しているわけではない。しかし、奇妙な強制力があった。
そして、コウキは鉄パイプで力一杯、男の頭に向かって振り下ろす。そして、柔らかな笑みを浮かべて、許しを乞わせる。
もっとも、コウキはこの男にそんな余裕を与えるつもりはない。ぐい、とその首に巻かれたマフラーを引っ張る。あっさりと解けたそれを掴んで、コウキは笑った。
「服汚れたけどさ、そのマフラーで許してやるよ。優しいだろ、俺」
これから電車に乗って一仕事してくるのだ。それくらいの駄賃はもらっても罰は当たらないだろう。
自殺と言って、世津子(セツコ)が思いついたのは拳銃だった。エドゥアール・マネの作品の自殺を見たせいだと思う。
色鮮やかなフランスの貴婦人を描き、当時の絵画の伝統をぶち壊したマネはセツコにとっては理想だった。セツコは伝統というものは嫌いではないが、いつまでも頑なに埃を被るだけの役に立たないものは嫌いだった。
そして、自分もその役に立たないものだと思うと、セツコは唇の端から歪んだ笑みが零れ落ちてくる。それはまるで笑う事を知らない人形が無理やり笑ったかのような不自然な笑みだった。
世界では自殺することは正義なのだ。世論は間違っているというが、日本の歴史を紐解けば、切腹や神風特攻、ありとあらゆる己に死を与える事実が蔓延している。
自分が自殺するに当たってセツコはたっぷりと自殺文化を勉強した。意外にも自殺をモチーフにした作品はたくさんあった。
何と言ってもフランスの皇帝ナポレオンの愛読書も、ある青年が自殺するまでの苦難に満ち溢れた道のりを描いた物語なのでである。
なぜ自殺しようかと思ったのか。それは自分のやろうとしていることが不安で、悩んで、誰に相談して良いのかわからなかった。だからセツコは始めての給料で買ったノートパソコンをネットにつなげ、自殺者の集うサイトへと向かっていた。
そこには大量の負の感情があふれかえっていた。
人はここまで生きることに絶望した死人なれるのだろうかとセツコは恐怖した。セツコはその闇に囚われてしまったのだ。もう逃げることすら諦めて、全てを受け入れようと決心した。
自殺を決め、頭に響き渡るのは、妹の声だ。セツコには妹がいた。血のつながりのない、妹が。
セツコは老舗旅館の娘で、今年で二十六歳になる。母親は十五歳の頃、つまり十一年前に亡くなり、父親は今から三ヶ月前に脳卒中で死んだ。もともと高齢だったので、潮時だったのかもしれない。病院に運ばれ、あっという間に亡くなってしまった。
はっ、とセツコは壊れたような笑みを浮かべる。嘲笑だった。笑わずにはいられなかった。
親より先に死んではならないとは良く言ったもので、ならば生みの親二人が死んだのだから、自分も二人を追いかけるべきなのだろう。
家族が一人もいないわけではない。セツコには義母がいた。
そう、今から十年ほど前、父が再婚した女性だ。母が死んで奇しくもちょうど一年後のことだった。久恵(ヒサエ)という女性で、始めて会った時から変わらない美しさを保ち続けている人だ。
ぴんと背筋の伸びた姿は、雪の中に咲く菊のような印象を受けた。貞淑なだけでなく、凛として、言葉なく存在だけで自己主張をする。清潔で高潔で貞潔で、自他共に厳しい人だった。
好きか嫌いかと聞かれれば、好きだった。しかし育ての親としての才能は優秀ではないのだろう。ヒサエの実の娘、つまりセツコの義妹の未知子(ミチコ)は悪意のある少女だった。
やんわりと、それとなく人を毒でゆっくりと殺す。そんな少女だった。
四歳違いの彼女は、始めて会った時は十二歳で、複雑な年頃だった。十六になったばかりのセツコは、新たな家族である彼女の扱いを考えあぐね、戸惑っていた。
今思えば、あの黒すぐりのような瞳には、セツコが自分の領域を侵す異物と捉えていたのだろう。
そんなミチコが旅館の仕事を手伝い始めたのは、三年後のこと。十五のミチコと、十九歳のセツコ。七年も前のことだ。
そもそも始まりは何だったのか。父と再婚したヒサエは、その頭角をめきめきと現し始めた。己の影響力を徐々に広めて、彼女は旅館の最高権力者となったのだ。
そして次期女将は、セツコになることに決まった。ヒサエはそれを認めた。彼女は自分の娘だからといって、ミチコを甘やかさなかった。
今思えば、ヒサエとミチコの親子の間には親子らしい情の入った会話はなく、一方的に叱りつける会話が多かったような気がする。それを省みてみれば、セツコが実の娘でないからこそ、母親に贔屓をされていたとミチコの目には映ったのだろうか。
だが実際にミチコは癖が悪かった。基本、彼女の行動は大半が旅館に迷惑をこうむるようなものが多い。旅館に泊まりに来た男を誘惑し、身体を売った。嘘の案内をして客を騙した。途中で仕事を逃げ出した。特に男と関係を持ったことは、ヒサエの堪忍袋を爆発させた。
意地汚く言い訳をし、女である事に優越感を覚えたミチコは醜かった。学習をしない女だった。ヒサエは、そんな彼女を容赦なくはたいた。大勢の人いる前で、恥をかかせるように。
その時感じたものが、いつもミチコが感じていたであろう言葉にできない優越感が、セツコの身を駆け抜けた。ざまあみろ、と思ってやったのだ。
ミチコはセツコを敵視していた。セツコもそんなミチコを煩わしいと感じていた。別にミチコは女将になりたいという野心を抱いていたわけではないのだろう。ただ、目の前にあった邪魔な存在がセツコだった。ただ、それを刈り取ろうとした。それだけのことだ。
そして、セツコは負けた。ミチコとの戦いに負けた。それは生きる気力を失うほどに、全てを根こそぎ剥ぎ取られてしまった。
セツコは母親の顔を思い浮かべる。ミチコの実母を。己の義理の母を。きりりとした菊の花のような、美しく、優しい女性を。厳しい人だった。尊敬していた、一人の人間として。
だからこそ、裏切りは許せない。
セツコは遺書を置く。最後に自分の生きた証が欲しいのだ。最後にささやかであるが難解な命題を残したいのだ。
これを見れば、きっと誰もが自分を忘れない。そう思うと自然と頬が緩んだ。
そして、この遺書は義理の妹が見ることはないのだろう。永遠に。
考えを遮るかのように、ちょうど良いタイミングでインターホンが鳴った。玄関へセツコは向かった。
そこにいる待ち人らしい見知らぬ少年の姿を扉越しに見て、セツコは微笑んだ。
義妹を殺すであろう誰かの存在が許されることに、セツコは素直に喜んだ。
その翌日。名前も知らない待ち人がセツコの下を去った、次の日のことだ。
セツコは水の張ったバスタブに左腕だけを突っ込んで、眠るかのような姿で発見される。
彼女の住んでいるアパートの部屋番号で人が死んでいると言う通報があったのだ。
警察に発見された時、セツコはすでに息はなかった。死因は自殺の一言で片付けられた。
そして、通報者の姿は近辺で発見されることはなかった。
案内した場所は森の中だ。深い森はミチコの領域だ。そしてミチコの好きな場所でもある。
今の季節は色付いた、鮮やかな葉が落ちてくる。旅館で働く少女、ミチコはイチョウ柄の着物を着て、楽しげに足を進めた。
後ろからついてくるのは、ミチコの勤める旅館の客で、かなり若い。まだ十代ではないだろうか。こざっぱりとした都会的な雰囲気を纏った未成年が、なぜ老夫婦が愛用するようなウチの旅館に来たか疑問だったが、別に関係ないかと片付けた。
「ここ、穴場なんですよー」
ミチコは笑顔で言う。旅館にたった一人で泊まった風変わりな少年は、暇を持て余した従業員に案内を頼んだ。それがミチコだった。
ミチコはボブカットの良く似合う、はつらつとした少女だった。お人形さんみたいとお客に評されるとおり、母親に似た黒髪は絹糸のように細く艶やかで、愛らしさの中に独特な色香があった。
だが、その楚々とした外見とは裏腹に、彼女は旅館の客にささやかな嫌がらせをすることを繰り返す鼻つまみ者だった。
彼女がアルバイトであったなら否応もなく解雇されただろうが、彼女は若女将の娘である。そんな立場であった上に、旅館は人手不足。さらに彼女の上っ面だけの明るさと優しさで一部のファンがいることも起因し、旅館の手伝いを続けた。
ミチコは今日も、この珍しい客人にささやかな嫌がらせをしようと森の奥へ案内する。
山のふもとには紅葉の名所があると嘯いて、案内をするのだ。そして、一定の距離まで行くと、客を置いて逃げる。そして、一時間ほど放置して、迎えに行くのだ。
突然案内人が消えて、不安に戸惑う姿がミチコはたまらなく好きなのだ。
ミチコの質の悪さは、その客を必ず気の弱そうな、文句をつけそうにない人間にするのだ。だから、旅館に実際に悪評はない。ただ、一時間ほど放置して、適当な言い訳を言えば、残念そうな顔をしてそうですかとしか答えるしかないのだ。
そして、この少年もそんな戸惑う姿を見たくて、森の奥へと足を進める。一人旅をしているのか、どちらにしろ若い男の子だ。きっと今も見知らぬ場所にやってきて不安なのだろう。その顔が歪む姿を想像すると、ミチコは奇妙な興奮を覚える。
「紅葉ね。どこで見えんの?」
「ここにちょっと行った所に、滝があるんですよ。今の時間だったら一緒に虹も見れるんじゃないですか?」
ミチコは口からでまかせを言う。もちろんこれは嘘だ。そんな都合の良い風景など、この近くにはない。
「ふうん。俺が聞いたのとはちょっと違うな」
「あら、この辺に来たことあるんですか?」
ミチコは目を丸くする。こんな田舎に来たことがあるなんて珍しいと、素直にそう思った。
「いや、始めて。でも、知り合いがここの出身で、ちょいと頼まれてここに来たんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「そう。顔は……どうだったかね。覚えてねえや。美人だったかな。焦げ茶の髪を、こう後ろで結わえた浴衣美人なんだけど」
「へえ」
それを聞いて、頭に思い浮かんだのは義姉のセツコだ。なぜだろう、それが真っ先にミチコの頭に思い浮かんだ。
きっと、いつも姉が和服を着ていたせいだと、自分を納得させる。心臓の音がやけに耳につくが、きっと気のせいだ。
「それはそうとさ、あんたんトコの旅館って、女将いるだろ?」
「ええ、あたしの母ですよ」
急な話の変化球にミチコの声のトーンが落ちる。どこで知ったのだろうと思ったけれど、そのことはここらでは有名だ。偶然、聞いてしまったのだろう。
「美人だよなぁ。ありゃ堅物に見えるけどずーっと待ち続けた純情女だ。泣かせる話だよな。あんた、あの若女将の連れ子なんだろ?」
「そう、ですけど」
何だか違和感を覚えた。確かにミチコの母、ヒサエは後妻だ。そして、数ヶ月ほど前に亡くなった旅館の主人は、ミチコの義父に当たる。
しかし、この少年はどうしてここまで詳しいのだろうか。
田舎にちょっとした暇つぶしにやってきたくせに、やけに旅館の内情に突っ込んでくる。
「ちょいとややこしいが……あんた、連れ子で母親が旅館の……あー、旦那? 経営者? まあ、一番偉い奴、そいつとあんたのお袋さんは再婚したんだよな。つまり、あんたは父親と血の繋がりは一切ねえわけだ」
「……」
「そんで、十年前に死んだ先妻には娘がいた。あんたの義理の姉な。ちょっと前に実父が死んで、家族が義理の母親と妹しかいないっていう灰被り女」
少年は歩き続ける。ミチコは足を止め、少年に向かって振り返る。
この、少年は。
「……あんた、一体」
「あの女なら死んだよ」
何が目的で、という言葉は続かない。代わりに出てきた言葉に絶句する。
今、この少年は何と言った。
「あんたの姉貴は死んだよ。リストカットで自殺だってさ」
「うそ」
真っ先に出てきた単語がそれだ。
ミチコが線の細かった義姉を最後に見たのは、タクシーに乗る後姿だ。
ミチコの義理の姉。彼女は血のつながりが一切なかった。ミチコにとっての義理の父親の血を、唯一の血を正当に受け継ぐ女。自分とはまったく、何もかもが違う姉。
姉は次期女将候補だった。母親は義理の娘である彼女に厳しく指導した。ミチコは知っていた。母はあの女を旅館の跡継ぎにするのだろうと。
実の娘を差し置いて、義理の娘を優先したのだ。嫉妬が、悪意が、どろどろとした感情が渦巻いた。常に道を譲ってもらう事しかされなかったお姫様であり続けたミチコには屈辱だった。
だから、存分に彼女に悪意をぶつけた。好きな男が出来れば、間に入って邪魔をする。将来は姉のものになる旅館の評判をわざと落とす。精神的に、様々な方法を使って追い詰める。
決定打となったのは、義父の死だった。いつまでも鬱陶しくお父さんお父さんと涙する姉に、とどめの一言を告げたのだ。
父に可愛がってもらったくせに、と姉はみっともなくミチコに負け惜しみを言ってきたが、そんな覚えはない。姉の支えは死んだ父親像だ。ならば、それを裏切るような事を言えばいい。
――もしかしたら、わたしはお母さんとお義父さんの本当の子供かもしれないのよ?
不倫で出来た子供。その半分は、あなたと同じ血が流れていると毒を流し込んだ。
――もう随分前から、母さんはあなたを裏切っていたのよ。
あなたのお父さんは裏切っていた。不倫をしていた。わたしの母と、もうずっと昔から、あなたが知らないずっと前から!!
それだけで、あの女は糸が切れたみたいに壊れ、崩れ落ちた。
冷静に、気味が悪いくらいに平静を装って別れを告げ、タクシーに乗ってここから出て行った。母はそれを別れた男に追いすがるかのように追いかけて、彼女の名を呼んだ。セツコさん、と。実の娘以上に可愛がっていたあの女に向かって。
それが、義姉を見た最後の姿だった。都会の方へ行ったらしいが、そんなのはどうでもいい。あの女が視界から消えて、清々した。
生きているはずだ、生きているはずなのだ。上京して一度だけ手紙が届いた。それを最後に、もう連絡は何も来なかった。
目の前の少年は何と言った。姉がどうしたと、何と言ったのか。
「うそ、ねえさんが。うそでしょ?」
呆然とする。あれが最後の姿だと覚悟していた。けれど、きっとこの空の下で、傷つきながらみっともなく生きているはずだった。
なのに、彼は否定する。どうしてそんな事をするのか、ミチコにはわからない。
「頼まれたんだよ」
少年は言う。ミチコの言葉など必要ないと言いたげに。青と緑の格子柄のマフラーを首に巻き、微笑んでいる。
ぱちん、という音がした。彼の右手には大降りのサバイバルナイフが握られていた。嘘のような光景だが、それは現実だった。
有り得ない光景、有り得ない姉の死。全てが現実離れしている。
少年は優しげに、それが救いであるかのように告げた。
「あんたを、殺してくれって人に」
死神だ。この少年は、きっと死神なのだ。反射的にミチコは彼がセツコを殺したと察した。根拠はない、しかし当然のようにそう思った。
それに気付いた様子もなく、マフラーをした死神は微笑んでいる。どうしようもなく、優しげに告げる。
それ全てがミチコの恐怖を煽った。目の前にいる彼が同じ人間だとは思えなかった。
人間ではない何か。あるいは台風のような自然現象、天災。現実離れした彼は、この世の生き物ではない。
ミサコは目の前に立つ彼がただの人間とは思えなかった。いや人間だからこそ、その皮の奥に隠された中身がわからず、得たい知れない恐怖を煽る。その一枚剥いた先には血肉以外の何かが顔を出してきそうで、恐ろしい。
動けない。足が重い。錘をつけたかのように、底のない泥沼の中を無理やり動かされているように、がくがくと震えるだけで動けないのだ。理由もなく恐怖を感じる。
そして、死神の少年の唇が動いた。スローモーションで、ゆっくりとゆっくりと動き始めるのだ。
何も喋らないでとミチコは思ったが、そんな口にも出せない言葉が聞こえるわけがない。彼はただ、微笑んで言葉を紡ぐだけだ。何よりも美しく、どこまでも残酷で、慈愛に満ち溢れた一言を。
「もう死んでるんだ。かわいそうだろう。これが最後のお願いって奴なワケ。あんたを殺してってさ。どうよ、泣かせるシナリオだろ?」
冗談のような大きさのナイフを持った少年が、確実にそこにはいた。果物ナイフのような小ぶりなものではなく、魚を捌くようなサバイバルナイフだ。あんなもので切られたら、致命傷は免れない。
「い、いや。知らない、あたし、知らないよ、そんなのっ」
ミチコは言い訳がましく訴えた。だが、事実だ。人に恨まれるような事はしてない、と思う。仮に恨まれていたとしても、殺されるほどに恨まれていることなんてしていないのだ。
セツコが死んだと少年は言った。彼女に頼まれて、ミチコを殺しに来たとも。
けれど、全て義姉が悪いのだ。弱いから、死んだのに。あんな嘘かどうかすらわからない、信憑性のない事を信じたあの女が悪いのだ。あんなものに負けて、死を選んだ姉全てが。そんな姉の言うことなんて聞かなくていいのに。
それに少年は呆れたように息をついた。
「知っていようと知っていないとしても、テメエは人様に恨まれてんの。それこそ、殺してくださいってお願いされるくらいにな。だから、諦めろよ」
「そんな、諦められるわけ、ないじゃないっ!!」
ミチコはもう泣きそうだった。人も誰もいない、森の中。ここは良くミチコが旅館の客を置き去りにして、姿をくらますのに使っていた場所だ。
滅多に人は通らない。しかし、注意深く周囲を見れば、いつか旅館にたどり着く。そういう場所だ。逆に言えば、普段は人がおらず助けが呼べないのだ。それこそ、いつもの置き去り行為には有利だが、今では何の役にも立たない。むしろ、今まで置き去りにした人々の呪いだと思えてくる。
どうしてこんな事をしたのだろうと、ミチコは今さらながら後悔する。
その浅はかで、ささやかな悪意こそが彼女の死因であることに、ミチコは気付いていない。なぜなら、どうしようもなく浅はかだからこそ、気付けないのだから。
「ね、ねえ、あんたはどう思うのよ。姉さんは、自殺したのよね。でも、だからって殺すことないじゃない。所詮、死人のたわ言よ。そんなの守る必要なんて、ないじゃない」
ミチコは頭を抑えて、涙を流し、泣きじゃくりながらコウキに訴えた。コウキは黙ってそれを聞いている。
「わからないわ。ど、どうして、どうしてあたしが殺されなきゃいけないの? あたしが姉さんを殺したわけじゃないわ、勝手に死んだのよ。だから、あたしは悪くない! 悪くないわ!! だって、あたしが殺したんじゃないもの!!」
ミチコは金切り声で叫ぶ。そうだ、認めてなるものか。たかだか死んだ人間の遺言なんかで殺されてたまるものか。
ずっと黙って聞いていた亡霊の意思を継ぐために存在している少年の口が開いた。その唇から漏れたのは意外な言葉だった。
「そうだよな。別にそれで良いんじゃねえの。あんたは悪くない」
「……ッ、じゃ、じゃあっ!!」
ミチコの顔が喜色に歪む。けれどそれは一瞬で、少年の新たな言葉によってかき消された。
「抵抗すればいい。存分に足掻けよ。その上で殺してやるから」
「っ!?」
その言葉に同意するかのように、少年の手にあるサバイバルナイフがぎらりと煌めく。ひ、とミチコの喉の奥から悲鳴になり損ねた嗚咽がこぼれる。
「正しいんだろう。それはわかった。でもな、あんたのその考え全部にこの世の人間全部が同意するなんて思い上がるなよ。俺の中であんたは死んで当然な人種なんだよ。っていうかさー、その言い訳は俺じゃなくて直接お姉ちゃんに伝えろよ。俺は伝書鳩じゃないっつーの。ウザったいわ、あんた」
意味のない言い訳は聞き飽きた。その黒い目がそう語っている。もう喋るなと言っている。
マフラーをまいた死神は、命を刈り取るナイフを振り下ろす。がちがちと震えるミチコに向かって。
わずかな希望は容赦なく打ち砕かれて、切り伏せられる。後は絶望とナイフが容赦なく深く深くに穿たれて、突き刺さる。着物を着た少女の影が、ゆっくりと倒れていく。
刺さった場所からは赤い水が滴り、枯葉の地面を茜色に染め上げた。
がたんがたん、と電車が揺れる。心地よいリズムはまるで心臓の鼓動に似ている。
コウキは向かい合わせに座るタイプの座席に腰掛け、窓の外からの景色をぼんやりと眺めた。耳には小型のヘッドフォンが装着され、MDを聞いている。三年前に買ったものだ。
当時はiPodが電気屋に並べられていたが、コウキは新しいものをとっかえひっかえするのが嫌いだった。オーディオマニアを狙って、どんどんと新しい機種を生み出すメーカーなんて一度痛い目見ればいい。むしろ倒産してしまえとも思う。
コウキが聞いているのは、ラテン系の独特のメロディが特徴の男性ボーカルの歌だった。
この歌はメロディだけでなく、歌詞が細かく考えられたものだった。実に詩的な内容で、物語調になっていたり、ささやかな恋と運命を嘆いたりと、なかなか個性的だった。
歌を聴きながら思い浮かべるのは、今日の自分の仕事だった。コウキは人を殺すことで金を受け取っていた。
ただし、彼の依頼者の姿はもう二度と見ることがない。コウキは自殺者から殺人の依頼を受けるという、特異な殺し屋だった。
コウキは自分が殺し屋だという自覚はない。しかし、殺し屋という言葉以外、彼の仕事を称する単語は残念ながらこの世界に存在しないのだ。
コウキがこの仕事をしているのは、仲介者の存在が強い。仕事の相方である彼の依頼で金をもらう。コウキは社会から半分逸脱しているので、普通の仕事につけない。だから現状の仕事は好都合な稼ぎ場だった。
家に帰る途中、本日の依頼人と獲物について、音楽を聞きながら集中して考えるのがコウキの日課だった。
今日は県外に出てきたので、電車などを利用して帰路に着く。新幹線の方が早く目的地に着けるだろうが、あえて時間のかかる電車を選んだ。 色々と考え事をしたい、それが理由だ。
今回の依頼人は世津子という名前だった。
コウキは毎回、依頼人の名前からその由来を導き出す。答えなんてない意味のない問答だが、コウキはその無駄な作業が好きなのだ。各々の名前に込められた意味は当然ながら千差万別で、それを紐解いていく作業が単純に好きなのだ。
手元には電子辞書がある。コウキはこう見えて勤勉で、出かける時は必ず電子辞書を持ち歩くのだ。
今回の依頼者のセツコ。セツコの世は、世界の世だ。津は船着場、渡し場という意味。世界の渡し場の子供。なかなかいいセンスをした名前だ。
そんな彼女は最初、ハンドルネームで名前を名乗った。仲介者とはネットで知り合ったらしい。
殺人承ります、ただし自殺したい人のみ。実に嘘くさいが、セツコは何百万のくじの中から当たりを引いた。実行犯であるコウキの存在を、有り得ない確立の下で見つけ出してしまったのだ。
自殺する前、コウキは必ず依頼者と顔を合わせる。例えそれが死に体であってもだ。訪ねた時点でまだ生きていれば大体の要求に答える。たまに自殺を思いとどまる連中もいる。たまに何を血迷ったのかやっぱりやめるとコウキに言い出すのが怖くなり、口封じをしようと襲い掛かってくる奴もいるが、その多くが返り討ちとなりこの世から消えていく。
もちろん依頼者と実際に会うのだから、色々な問題が起こるが、それは大半がケースバイケース。コウキが柔軟に対応する。依頼者が気に入らなければ、そのまま帰ることもある。依頼者が実行目前になって死にたくないと叫べば、じゃあ勝手に生きてろと言い残して仕事は終わる。もちろん死ぬのを最後まで見届けてくれと頼み、コウキに後のこと全てを託す奴もいる。
基本、コウキは仕事だけは真面目なので、依頼者を諸々の事情で殺したり、依頼者が心変えして生きたいと望めば金はもらわない。たまにチップはもらうが、そこらへんは愛嬌だ。
きちんと獲物を殺し、お客のニーズに応えれば報酬は頂く。彼なりのルールがあるらしい。ただ、自分の失敗にはあまり興味がないのが欠点だ。
今回の依頼者、セツコのハンドルネームは銀世界だった。セツコを世津子ではなく雪子にして、そこから連想した名前なんだろうとコウキは推測する。ついでに頭文字の世ともかけている、二重の名前だ。
個人的には本名である世津子の方がもっと雄大で、洗練されている気がするのだが、彼女が自分で生み出した名前だ。批判するつもりはない。
もしかしたら、彼女は雪になりたかったのかもしれない。空から落ちて、地面に落ちて消える。そんな粉雪に。存在するだけの存在に。
そして、セツコの最後を思い出す。
その死に様はそれはそれは見事なものだった。セツコはコウキに全てを見届けてほしいと望んだ。コウキはそれを承諾した。断る理由なんてなかった。
セツコは睡眠薬を飲んで、腕をダンボールを切るのに使う大き目のカッターナイフでかききった。白い血管の浮かぶ左腕を、容赦なく切り裂いた。
コウキは唖然とした。怯えも躊躇も何もなく、生け花で使う花の枝を容赦なく切り落とすかのように、白い皮膚を引き裂いた。赤い血に染まり、まるでセツコの左腕は赤い花が咲いたようだった。
彼女がバスルームで息を引き取るまで、コウキはじっとそれを見届けた。それが終わると彼女の故郷へと向かった。
最後にアパートに向かって一礼したのは、人間としてのささやかな畏敬の念でもあった。
思い切りがこれでもかと言うくらいよかったセツコに比べ、妹のミチコはみっともなく執着し、予想以上に足掻いた。
どこまでも正反対な義理の姉妹にコウキは呆れた。血のつながりはないが、ここまで違ってくると逆に面白い。
そんなミチコの名前は未知子だ。未知、未だ知ることのない子供。呆れたことに、ミチコはそれを体現したような女だった。
生きる事に執着するのは悪いとは言わない。しかし、あの命乞いだけはいただけない。言い訳する人間は醜いものだ。
そんなミチコに比べ、全てを受け入れた姉のセツコの美しさは何と言っていいものか。
世界中の人間が驚き、讃えるに違いない。死を以って彼女は永遠の芸術作品に、ただの銀世界に、雪なったのだ。
ミチコはきっと、未だ知るに至らぬ女だったのだろう。ミチコは姉を知らない。母を知らない。人の痛みを知らない。何も知らない。
名はたまにその姿を取るのだなと、呆れつつも感心した。
本来は神秘とか秘密とか、ロマンチックな意味の名前なのだろうが、あの人格全てがぶち壊している。
ミチコは死んで清々した、という気分が今のコウキの頭の半分を占めている。
そして、コウキは自らの名前を思い返す。
幸喜。幸せと喜びの二文字を合わせた名前。
見ているだけで心が温かくなる、美しい名前だ。
その名前に恥じぬ、立派な人間になろうとコウキは常々思っている。
コウキは人殺しだが、法律によって定められた自分に必要なことは守る。他人に迷惑をかけて面白がるような行為はしない。並んだ列の横から横入りをされても、苦い顔をするだけで我慢を知っている。ただし、表情だけは我慢できない。
彼が人を殺すのは罪悪を感じないせいだ。コウキは道を外れているが、決して悪の色には染まってない。透明すぎて、染まることができないのだ。
コウキは自らの生み出した独自の倫理に基づいて、歩を進める。理不尽な天災として。
人を殺すコウキだが、彼は自分が殺される可能性を常々考えている。
人間には生まれついてからずっと、死というダーツを差し向けられているものだと、コウキは考える。それはずっと、生きている限りどこまでもどこまでもついて回る。消すことなんてできない。そして、恨みを買えばそのダーツは増殖していく。
コウキも自分に向けられている死神のダーツに気付いている。その量は一般人の数倍もある量が向けられている。それを覚悟している。
そうまでして人を殺すのは、コウキが正しいものになりたいからだ。そのために自殺者依頼の殺人をやっている。それは性に合っていた。
自ら死ぬことは悪いとは思わない。死ぬことを恐れることも当然だ。けれど、悩んで悩んで選び取った答え。最後の悔恨を断ち切れるのなら、それを救ってやろうとも思う。
一度しかない人生を、自分で幕を閉じる。アンコールもない、ただの芝居が終わる。
コウキはただ、その観客になって花を添えている。彼の仕事はそういうものだ。
ふと携帯電話を見ると、メールが届いた。スパムメールではない。どうやら依頼のメールらしい。相方の人使いは荒い。だが仕方ない。求められているなら、やるべきだ。
そう。それは観客として傍観者として、最後の目撃者として。
コウキは求められる限り応じ続ける。誰かに幸せと喜びを与えること目指して、ひたすらに。
花を贈るか、と電車に揺られながらコウキは思った。あの旅館の若女将に、花でも贈ろうと思った。
娘を二人失って、きっとショックを受けているのだろう。コウキには良くわからないが、想像するだけはただなのだ。
花を贈ろう。
コウキはもう一度そう声に出さず、繰り返す。
菊のように美しいと義理の娘に謳われた母親に、菊の花を贈ろう。祈りをこめて。
そして、コウキはふと思い出す。セツコが腕をかき切り、血まみれになった左腕。あれは花に似ていた。あれはきっと、この世でもっとも美しい花だろう。
花を贈ろう。コウキは繰り返す。すれ違う母と娘のために、憎み合う姉妹のために、哀悼の意をこめて。
後日、コウキはまた電車に揺られて旅館に向かい、菊の花束を渡すついで、セツコの義母に彼女の全てを書き綴った遺書を確かに届けた。