忘却界。
どこかで聞いたことがある。
それは、あの女性から教わったものなのか、それとも他の誰かから知らされたことなのか。
私を呼ぶ声がする。
マナ、と。聞き覚えのある声。それは誰だっただろう。
幼馴染の少女か、妹と共に暮らす青年か、領主に使える侍女か、それとも力を欲する魔術師の少年か。
私を呼ぶ声。私はそれに胸が締め付けられそうになる。あの人とは別れ、私はこの世界をさまよう。
そこで私は少年に会った。私より年下の、何かを守る少年だ。大事なものを守るため、大事な記憶を取り戻すため、私は彼と一緒に行動する。
ゆらゆらと船に揺られて、私と少年は大河をさまよう。色々と私と少年は話した。
と言っても私の記憶はあいまいで、あの女の人のことしか思い出せない。輝く輪にも見えた白い蛇。全てを呑み干す大河のように、罪人の魂を食らい生み出す。
きっと彼女は、寂しかったのだと思う。私に良く似た誰かを好きだったのだろう。
私は彼女のことを語る。少年はそれに対して、己のことと故郷のことを語る。いつか帰る場所を。
「故郷のこと、覚えてる?」
私は聞いてみた。私自身、記憶があいまいだから興味があったのだ。
「うっすらとだけ。帰りたい場所だよ」
少年は寂しげに微笑む。私はその微笑を見て悲しくなった。なぜだかはわからない。
そして、ふと思い出す。
私も少年と同じように帰りたい場所があった。
そこには遺跡があるだけの街。かつては村より少し大きいくらいだったのに、いつのまにか冒険者が集まるようになった。
そう、私を育ててくれた人がいる。しわくちゃの優しい老婆がいた。私はその人のことが好きだった。彼女のようになりたいと思っていた。
神を疑っていた私には、多分できないとわずかな諦めも一緒に思い出した。
それでも私は思い出したのが嬉しくて、少年にお礼を言った。少年はあまり興味がなさそうだ。少し寂しい。
それから、私達は櫂を使って島を探す。不思議と空腹感も不安もなかった。
やがて私達は死と陰の谷という島にたどりつく。不気味な島だ。
「・・・ああ、そうだ。俺は・・・」
少年は頭を押さえた。どうしたの、と声をかければ納得したように少年は答えた。
「俺は、ここでスナークを狩るんだ。そうすれば、故郷が救われる・・・」
良くわからないけれど、彼がそう言うのなら私は協力することにした。
そして現れた化け物を倒す。意味不明の言葉を放つ良くわからない生き物だ。
こいつは少年の探しているスナークではないらしい。私と少年は死と陰の谷を奥へと進む。不気味な場所だ。進めば進むほど瘴気に満ちて、死の気配が近寄ってくるのがわかる。
やがて少年はスナークを見つけた。けれど私には見えない。良くわからないまま、私は武器を振り回す。
そして、ほんの一瞬。
私はスナークを見た気がした。肉を切る感触と骨を砕く音。私はこれをなんと呼ぶか知っている。始めは気付かなかったけれど、倒した後に正体を見せた。
人だ。老人に、女子供。戦う力を持ち合わせない人間だった。
私はショックを受けてその場にへたりこんだ。少年も同じ気分のようだ。
「そんな・・・」
口元を押さえ、少年は罪の意識を抑えた。
「でも・・・俺の故郷を、虚栄の市を救うためには仕方なかったんだ・・・」
少年は思いつめた表情で、己に言い聞かせるように言う。
仕方ない。その言葉はまるで魔法だ。犠牲を正当化する魔法の言葉だ。
落胆の塔とやらでも、同じようにそう言い聞かせている囚人もいた。あの塔は裏切った罪人を閉じ込める場所なのだろう。
ああ、そうだ。思い出した。ここは忘却界とは生死の狭間にある世界。死後の世界に最も近い場所だ。
なら少年の故郷とは一体何のことだろう。舟をこぎ、そんなことを思っているとやがて舟は彼の故郷へとたどりついた。
まず見えたのは漆黒の立方体に、球が引っ付いた謎の建物だ。とにかく大きい。巨大な都市が治まるほどの大きさだ。
そして、市には多くの人々がいた。妙な格好をした人々だ。少年が声をかけるけれど、誰も答えない。まるで少年が見えていないかのようだった。
「どうして・・・? 誰も俺のことを知らないのか?」
少年は不安げに言う。
「俺の家族も、友達も・・・もう誰もいないのか?」
私は少年の手をつかんだ。反射的に彼にそんな顔をさせるわけにはいかないと思った。泣かないで。私はただ彼にそう告げた。
少年は驚いたように私を見つめた。
そして誰かがやってくる。化粧の濃い男だ。今まであった人間の中でもひときわ目立っている。
「朕の国で何を騒いでおる?」
「・・・俺です。命令どおり、スナークを狩ってきました」
どうやらこの男が少年にスナーク狩りを命令したものらしい。お世辞にも尊敬できる人となりとは思えなかった。
「スナーク? ああ、そんな命令を出したこともあったな」
王と名乗った男は悪びれもせずに告げた。
「・・・はい。スナークは武器も持たぬ女子供の集まりでした。本当にこれで良かったのでしょうか」
「そんなこと、どうでもよかろう? 相手が武器を持っていようといまいと、朕が狩れと命じたのだから」
酷い。そんな理由で少年に命令したのだろうか。王は私が憤っていることなどわかろうともせず、傲慢な態度で少年に命じる。
「それよりも次の命令じゃ。今度はバンダースナッチという化け物を狩ってこい」
「・・・それは本当に化け物ですか? 俺はもう無意味な犠牲を出したくありません」
少年は私と同じ気持ちだったのだろう。王に食って掛かる。
「朕が命じたのだ。そなたは犬のようにそれを成せばよい」
「・・・納得いきません。せめて俺は正しいと思えることのために戦いたい!」
「おお、いやだ。朕が正しくないと申すか、犬の分際で。この者を干からびるまで鎖につなげ」
「・・・・・・っ!」
少年は憤怒を宿した目で王を睨む。
「ふん、狂犬め。飼い主の手を噛むか。命令なくば何もできぬくせに」
「黙れ。お前は俺に・・・何をさせた」
一瞬。
少年の姿がぶれた。それは彼を一瞬だけ成長させた。私は少年のその姿を知っているような紀がした。
「お前は俺に何をさせたんだ! 自分の手を汚さずに!!」
少年は激情のまま、処刑刀を王に突き立てた。彼はそのまま走り去る。おかしなことに、誰もそれに見向きもしない。殺人が起きようと、ここに住むものの興味を引くことはできないらしい。
私は少年を追いかける。やがて遠くに見えた黒き方舟の間近に来た。私はこれを見たことがある気がした。
待ち行く人々に話を聞くと、あれは罪人の王が作り出したものらしい。永遠を生きるために生み出された、権力と虚飾と快楽を放つもの。
私はその名を知っている。
けれど、それに触れることはできない。圧倒的なエネルギーで侵入者を拒むのだ。当然と言えば当然だろう。神々ですら滅びつくせぬ悪しき遺産を私だけでどうにかできるわけがない。
私は少年を追う。彼を一人にしてはいけないのだ。
少年は浄罪の山にいた。先へ進めないらしい。彼は御使いに懇願していた。信じられるものが欲しいのだと。罪をあがなうために神に仕えたいのだと。
もう一度心から守りたいと思うものを守るために。けれど御使いは容赦なかった。彼を吹き飛ばし、私にはこう告げる。
前世の罪をあがなえと。覚えてもいない罪をあがなうとは難しい注文だ。しかし、私は先に進まなければならない。生き延びるために。
虚無の岸で少年を見つけた。真っ黒な、何もない闇。私を覆いつくすであろう闇だ。
少年は私を見て怯えている。
ああ、そうだ。
ここはそういう場所だった。生と死の狭間、心の奥底を暴き立てる。彼は、私が何に見えているのだろう。私には少年が少年に見える。
罪に怯え、泣き叫ぶ。悲しい人。
そう、彼の名は。
「・・・メロダーク」
私はその名を呼ぶ。神殿の密偵として、ホルムへとやってきた人。遺跡を調べ、志半ばにして死んでしまった仲間の死を悼んだ。
「俺は・・・私は、知っていた。己のしてきたことの罪深さを」
私はうなずく。彼の足元から、影が湧き出た。それは絡みつく、まるで黒い蛇のように。
「故郷を守るためと言いながら、罪を重ね続け・・・そして、今も」
私は手を伸ばす。
黒蛇の群れなどものともせずに。
私は理解した気がした。
神の愛に常々疑問を持っていた。
なぜ神は人を試し、滅ぼし、愛するのだろうと。
憎んでいるほど嫌っているのに、祈るように愛するのだろうか。
その想いが、理解できた気がした。罪を重ね、それに怯え、購おうとする誰かを愛しいと思う。
多分、これが神の愛なのだろう。私という人に、神が与えた一つの意思。
私はそれが美しいと思いながら、手を伸ばす。
「よせ・・・! お前まで食われる!」
メロダークはもう少年ではなかった。私の知っている料理が下手な、無口な傭兵。その影で、己の所業に怯えている人。
私は蛇の群れを倒す。小舟へとメロダークを運び、逃げ出す。
私は何も救えなかった。今まで何かを救ったことなどないのだ。だから、せめてメロダークを救いたかった。
ふと、手元で光った。それは櫂だ。小舟をこぐための櫂、それが柔らかな光を放つ。
これは、おそらく。
「アークフィアの櫂・・・!?」
白い蛇の刻印のあるそれは、大河の象徴。冥府の渡し舟の使う櫂だ。一振りすると、まさに全てを飲み込む濁流のような一撃を放つ。
「お前の持つそれは一体なんだ・・・? 俺の身体を戒める黒蛇を一瞬で・・・」
呆然としてメロダークは私を見つめた。
「それは神がお前に与えたのか・・・それともおまえ自身の放つ光なのか・・・」
わからない。おそらくそれはどちらでも正しいのだろう。アークフィアは私を守ってくれた。けれど、力を振るうのは私自身なのだ。
「お前のような奴に始めて出会った・・・」
私は苦笑する。私はただ必死なだけだ。始祖帝の企みから逃れるため、ただただ必死なのだ。
やがてメロダークの姿が薄れた。おそらく現世に戻ったのだろう。
私も還らなければならない。成すべきことがあるから。
足元に鏡が落ちていた。そこに写っているのは、私だ。もう一人の私。私の前世の姿。
映し出されるのは人の歴史。人はたやすく生まれ、死ぬ。獣のように奪い、時に容赦なく死んでいく。
もう一人の私は告げる。許せなかった、と。人が獣であることが、世界の残酷さが。
それを変えようとしたのだろう。けれど、彼は嘆く。人々の罪は、暴虐さは止まらない。疲れ果てた私は、諦めた。狂気の淵へと沈んだ。
きっとこの私は、かつて人であった私。己の矮小さを知り、そこから抜け出し、救われたがっていた私。
私の祈りは悪であると、罪にまみれていると。
けれど、私は生き続けなければならない。救済の日など、私には必要ない。
私が私であることを望み、それを必要とする誰かがいる限り、私は壊れないのだ。
いつかきっと、大河の果てで彼女に会う日まで。
私は誰かの隣で、生き続けるのだ。
私を呼ぶ声がなくなる日まで、私は懸命にこの世界に存在し続ける。
その隣にはきっと、あの少年だった彼がいてくれると信じて。
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