家に帰るのはめんどくさい。
その心は。
こんな深夜をうろついているのは、ロクな人間がいないからだ。
草木も眠る丑三つ時、こんな時間にうろついているのは仕事熱心で過労死寸前の警察官か、我が物顔の素行不良な連中か、はたまた犬養率いる自警団くらいなものだ。
タクシーはない。なぜなら、この治安の悪さで、すでに何台ものタクシーが盗まれ、暴行を受けている。そんな中で、生真面目に働こうとするものはいない。
歩いて帰るにしても、面倒すぎる。となると、どうするか。
蝉は、懐から携帯電話を取り出した。新しい機種で、アドレス帳のボタンを押す。目当ての番号は、一発で出てきた。
あ行唯一の登録者、安藤。
蝉は問答無用で通話ボタンを押し、安藤に電話した。
ワンコール目、反応はない。まあ、すぐに反応するとは蝉も思っていない。
そして、三分後。
『・・・もひもひ』
奇跡的に安藤の電話は通じた。蝉はそれに一言。
「遅ぇ、何だその遅さは。お前は亀か、カタツムリか。文明開化の鐘が鳴ってんだから、とっとと反応しろ」
このノロマ、と不機嫌に付け加える。
『・・・蝉、さん?』
「他の誰がかけるんだよ、こんな時間に」
安藤は沈黙し、やがて「あーほうでふね」と呂律の回らない声で言った。どうやら脳みそは半分眠っているらしい。
『何の用、ですか?』
「泊めろ」
蝉は命令口調で簡潔に言った。
『・・・はあ』
「はあ、ってことはYESってことだよな。よっしゃ、宿と朝メシ、両方ゲットだ」
『断ったら、怒るくせに・・・』
「何か言ったか」
『いいえ・・・』
何も、と付け加える。
「とにかく、そっち行くから。茶でも用意してろ」
『睡眠妨害はやめてください・・・明日早いんですよ、俺』
新聞部がどうのこうのとか言っていたが、蝉は無視した。
「うっせぇな、いいからそこにいろ」
蝉は空を仰いだ。
おお、と思わず声を上げる。どうかしましたか?という安藤の声。
「いんや、月」
『月?』
「ああ、今日、満月かって」
『・・・ああ、満月ですね』
しゃっ、とカーテンを広げたのだろう、携帯越しに聞こえた。
「星は見えねえな」
『空気が汚れてますからねー』
それに背の高い建物も最近増えましたし、と安藤は言う。星なんて真面目に見たことなど一度もない。
だが、雲ひとつない暗い夜空に、王者のように存在する月は見ていて飽きない。
『知ってますか、蝉さん』
「何だよ」
『満月だと、なぜか犯罪の確立が上がるそうなんです』
「・・・そういや、月の狂気って、ルナティックってルビがふられるよな」
月の満ち欠けは人の精神状態に作用するのか。しかし蝉には無関係だろう。月が満ちようと欠けようと、殺す時は殺すのだ。
『憂鬱な月曜日とも言いますし』
「ああ、土日明けには自殺志願者が多いってヤツか」
有名な話だ。楽しいことの後にある辛いことに耐え切れず、死を選ぶ。安い命だ。そんな安い命を蝉は商売道具にしているのだが。
「まったくいい迷惑だよな、俺には関係ないけど」
『月の影って、うさぎに見えるって話もありましたよね』
「ああ、アレ。けど、俺、あの影は蟹っぽく見えるんだが」
『蟹ですか?』
「そうだよ、似てねえ?うさぎなんかよりも、もっと似てるぜ。つうかさ、きねとうすを使ううさぎって、どんなんだよ」
そうですね、と笑い声。気が付くと、安藤の家にいた。
『安藤』
「はい」
『窓開けろ』
「はあ」
がら、と蝉の視界にある安藤家の、二階の窓が開く。携帯を持って、きょとんとしている。
蝉はにい、と引き裂いたような形の笑みを浮かべる。
「迎えに来たぜ、だから開けろ、かぐや姫」
『俺は姫ですか』
苦笑するような声。声は充分届く距離だが、なぜか携帯越しに言ってきた。近いようで、遠い。しかし、この距離が何より愛しい。
安藤は窓から離れ、階段を降り、玄関を開く。そこにはポニーテールの殺し屋がいる。
「いらっしゃい」
「おう」
出迎えて、安藤は蝉を迎え入れた。
とんだ月世界の人間だと思う。自分とは決して交わらない世界に属する人。なのに、その距離は信じられないほど近い。
けれど、それでいいのだ。
月は地球から離れようとも、近づこうとも、一定の距離を保つ。
安藤と蝉の距離は、今のままでいいのだ。
戻る