その日は曇りだった。雨が降るとのことで、一応飾り気のない透明傘を持っていくことにした。
灰色のどんよりした空は、春の天気の変わりやすさの象徴だった。蓮羽は明日には桜が見れなくなるな、と少し残念に思っていた。
そして、今日は探し物が中心なので、イヤフォンとMDプレーヤーを持ってお出かけだ。携帯電話は言うまでもなく、一応財布も持っていく。緊急事態のために、靴の中に小銭を隠して入れておいた。さすがにやりすぎな気がしたが、お金は大事だ。特に緊急事態になればなるほど重要なので、隠し持った状態で出かけた。
ちなみにこの不良のカツアゲを出し抜くような持ち運び方法は母親から伝授されたものだ。一体、母はどんな境遇にいたのか、聞きたかったが怖かったからやめたという思い出がある。
母曰く“備えあれば憂いなし”だ。まあ、その通りだよねーと蓮羽はあっさりと納得した。母親の謎知識の数々は今に始まったことではない。
蓮羽はやはり犯人は現場に戻るという理論にのっとり、昨日と同じ道を通った。
さすがに真夜中に通るのは気が引けた。コンビニから少し離れた場所にあるそこを通ろうとする人間などいない。蓮羽は、ごくりと喉を鳴らして、足を踏み入れた。
足を踏み入れた先、待っていたのはやはり薄暗い路地だった。しかし、まだ昼間なので、昨夜のように何がどこにあるか、その色彩も認識できる。
背の高いビルと、アパートらしい建物に囲まれた細い路地。蓮羽は緊張しながら歩いた。
そして、もうすぐあの現場に近づいてきた。そう思った矢先。
だっ、と誰かが走ってきた。
「えっ?」
声を上げると、その走ってきた存在は始めて蓮羽に気付いたらしく、足を止めて蓮羽を見た。
「あ・・・」
その声は走ってきた誰かではなく、蓮羽のものだった。
見覚えがあったのだ。邦英と生徒指導室で話していた男子生徒だった。
向こうは怪訝な顔をして、また走り去った。あちらは蓮羽の顔を見ていない。途中で気絶しているからだ。
しかし、蓮羽なんか目に入っていない様子で、まるで借金取りから逃げるように走る。
「・・・何なの、あれ」
かなり長時間走っていたのだろうか。とにかく、その顔は明確な色に染まっていた。
その色の名は。
「おーにごっこ、おーにごっこ、どーちらぁーにいーるのぉー? かくれんぼは趣味じゃねえんだよなぁ。だから、隠れるなんて面倒なことすんなよな。あー、ほら、早く逃げねえと、こわーい殺人鬼サマがお出ましだぜぇ?」
ぞくりと。
蓮羽の背筋に悪寒が走る。
脊髄をつかまれたような悪寒だ。
そして、蓮羽には聞き慣れた、慣れ親しみ過ぎた声だった。
ある時は、午後の授業で聞き。
ある時は、職員室の中で聞き。
ある時は、廊下を歩いて聞き。
その人物を知っているならば、誰もがその名を呼ぶだろう。
しかし、あまりにも知っているものとはかけ離れた言葉の羅列。
「・・・邦英、せんせい」
ぽつりと、ほぼ無意識に吐いたのは、彼の名前。
明るい日光の当たる時間帯。そんな中、彼の姿ははっきりと見えた。
いつもの紺色のスーツに、しわのよったワイシャツ。綺麗に結ばれていたネクタイはほどかれて、適当に首にかけられている。
スーツのポケットに手を突っ込んで、大股で歩いて近づいてくる。良く見ると、その足は革靴ではなくスニーカーをはいていた。
同じだが、微妙に変化がある。だが、邦英を知っている人間なら、彼が何者か困惑するだろう。
細胞の一つ一つが同じように、似過ぎている。あまりにも遠い場所にあるはずなのに、あまりにも近過ぎて、理解が追いつけないのだ。それは彼方にあるものが、認知出来ないのと同じように、近すぎてそこにあるとことが認識出来ないという現象と同じだ。
男は邦英に似ていた。
ただし、その顔は邪悪な愉悦に染まりきっている。蟻を潰す無邪気な子供のような酷薄な残酷さが、彼にはあった。その明確な殺意が、邦英との境界線なのだろう。
彼は、表に属せず、裏方に入って、全てを引っ掻き回す。快楽のままに、欲望のままに。
蓮羽は、そう感じ、そして判断してしまった。そうせざるを得なかった。
「・・・おお、昨日のガキじゃねえか。わざわざ殺されに来てご苦労様」
ぽんぽん、と男は硬直する蓮羽の頭を撫でた。乱暴だが悪意はなく、まるで初めてのお使いを達成した子供を褒めるような仕草だった。
「あ、あの、邦英先生の、お知り合いですか?」
我ながら間の抜けた質問だと、自覚はあった。けれど、ここで聞かなかったら何をしに来たのかわからなくなる。
「・・・ああ、そうか。アレの知り合いか、お前?」
そういえばアレは教師だったから、こいつは生徒か? と男はぶつぶつと呟いた。アレというのは、やはり邦英のことだろうか?
「まあいい。もうメンドくせえから、簡単に言うぞ。お前は昨日のことも俺のことも何もかも忘れろ。それともアレにも何か言ったのか?」
「・・・わたしの質問に、答えてない」
怯えながらも蓮羽は反論した。
それに男は頭をがしがしと掻き毟り、実にめんどくさそうに言った。乱暴されると身構えていた蓮羽は、男に見えないようにほっと息をついた。
「うわ、ウゼっ。俺とアレの関係知りたいってか。友人じゃねえし、家族でもねえ。わかったら失せろ、ストーキング小娘。昨日といい、邪魔なんだよ」
「でも」
「ウゼえっつってんだろ。引ん剥かれて殺されてぇか? とんだアホガキだな」
じゃきんっ、と男は蓮羽にナイフを当てた。どこから出したのかわからないそれで、ぴたぴたと刃の面を蓮羽の頬に当て、薄く頬を切った。冷たい感触に、蓮羽は何も言えなくなる。
「いいか。お前は俺のただの気まぐれで生かされている。俺の気分次第で、お前は天国の門をくぐるってワケだ。それともカミサマの御許とやらに送って欲しいのか?」
だったら遠慮はいらねえよな? と笑顔で言う。びっ、と頬にナイフを深く当てられて、血が流れた。男はその血の流れ出た頬を、こらえ切れない笑みを隠そうともせず、愛おしそうに撫で上げる。
「いいかぁ、お嬢ちゃん。コインには裏表があるだろう? この世界はなぁ、美醜と善悪と愛憎と闘争と、不条理と罪悪をトッピングして出来てんだよ」
男は蓮羽に講義でもしているかのような口調で、できの悪い教え子を諭すような口調で告げる。
ナイフを頬に当てたまま、恋人にするような優しい仕草で傷のない頬を持ち上げた。
その手の温度が伝わって、蓮羽は顔が赤くなるのを感じてしまった。命を握られているというのに、この男の顔と声に反応してしまう。
自分は予想以上に邦英という男に惹かれていたらしいと、今さらながらにわかってしまった。顔が同じなのも、身体が熱い原因なのだと、無理やり自己催眠をかける。
「世間知らずで浅学で無教育で認識不足なんだよ、お前らは。本当に何も知らない。だからこそ、この上なく安全圏にいんだ」
その時の熱に浮かされたような、嫉妬と憧憬が入り混じった目を何と言ったらいいのか。
蓮羽は、こんな目を知らない。こんなにも狂おしいまでに分別を失ったような感情を知る由もないのだ。
「だから、黙って劇でも見てろ。脚本も監督もクソみてえだが、一応はこっちは役者なんでね」
だから観客は傷つけないでやる、と。
そう言って男は蓮羽から手を離した。
蓮羽は男の言っていることがまるで理解できない。高鳴る心臓の音を止めることも出来ない。
わかったのは、目の前の男に何かを聞きだすのは不可能だということ。
だが、男はここで蓮羽も想像しなかった行動に出る。
「・・・いや、だから、こそ、か。何も知らないアホどもの中に、一人くらい原作を読んで、ネタバレしちまったヤツが一人くらい混じっても、面白いか」
くくく、と邪悪な笑みを浮かべ、男は蓮羽の腕を取った。
「っ、何を・・・」
「着いて来い。気が変わった」
蓮羽はどうして、と視線を向けたが、男は笑った。言うつもりはないと、その顔が語っていた。
「地獄に、世界の裏側へ案内してやる。そのために、色々と諦めろ」
何を、とは聞けなかった。
拒絶も出来なかった。
ある意味でそれは、蓮羽自身が選び取った、選ぶ必要のなかった選択肢だったのだから。

――――――――――

連れて行かれたのは裏路地。道が分かれている。片方は蓮羽も知っている。大通りに続く道で、何度も通り抜けるために使っている。
もう一つは知らない道だ。これは道が横へと伸び、どこへ続いているかはわからない。ただ、蓮羽はこの辺一体の地形を考え、何となく行き止まりになっている気がした。
事実、そこは行き止まりだった。築十年以上は経ったビル。アスファルトの道路は、ひび割れた灰色で、車が三台くらいは入れるくらいに広い。
そして、そこには誰もいないと思っていたが、誰かがいた。
蓮羽はあ、とそれを見た。そこにいたのは、先ほど何かから逃げるように走っていた男子生徒だ。
確か、名前は藤本ではなかっただろうか。学年は知らないが、邦英に何か相談をしていた。
藤本は男と蓮羽の存在を確認すると、怯えたように身体を震わせた。
実際には、蓮羽ではなく、男に対して恐怖を感じているようだった。そのくらい、蓮羽もすぐに理解できた。
この男は異常だった。この世界の全てが、彼を拒絶しているようにも見える。そのくらい違和感が拭えない、不可思議な存在だった。
「ち、ちくしょうっ! 何でだよ、何でだよ! 俺はただ、俺はただ・・・っ!!」
「うるせえよ」
言い訳を始めようとする藤本に対して、男は切り捨てるように言った。
「先生サマのご好意に甘えて、お薬がぶ飲みして、目覚めた阿呆が。舐めてんじゃねえぞ」
薬?
蓮羽は藤本を見た。彼はかたかたと震えている。貧乏揺すりをしているかのように、神経質な動きだ。目はまだかろうじて正気を保っているようだが、何かのショックで正気を失ってしまわないとは限らない。妙な不安定さがあった。
「コイツに見覚えはあるか、メスガキ」
「・・・・・・・・・・」
その答えを正直に言うならば、あると答えるべきだろう。蓮羽は藤本を見た。この前は生徒指導質で邦英と話し、ついさっきだが何かに怯えるように走り、ここにいる。
「アンタ、誰なんだよっ! 邦英先生に似てるけど、全然違う! 何者だっ!?」
どうやら藤本も、この男が何者なのか知らないらしい。
男は一瞬で顔から表情を消す。今までの邪悪な気配を全て取り払って。
「俺は、アイツの影だ」
朗々とした声は、聞き惚れるほどに美しかった。
別に大した事を告げるわけでもない、静かな声。厳かな預言者のような声だった。
「それ以上でも、それ以下でもねえ」
それを聞き、藤本はちくしょう! と叫ぶ。ぶつぶつと何か呟いて、ズボンのポケットから白い、小さな粒を取り出して、そのまま口に運ぶ。がりがりがり、と噛み砕く音が聞こえた。
それで、藤本は少し冷静を取り戻したようだ。しかし、目が淀んだ色に染まっている。明らかに様子がおかしい。
「こいつはなぁ、薬のやり過ぎでおかしくなっちまったんだ」
「え・・・?」
蓮羽の疑問に、意外にも男が答えた。男はあごをしゃくって、藤本を指し。
「薬だよ。大麻とか、阿片とか、そっち系統のヤベェの。まあ、それだけだったら、俺もここまで関わらねぇんだけど」
麻薬。
その常習性と、精神崩壊を引き起こすかもしれない効果は、授業で習う。テレビでその恐ろしさを見せられ、その辛辣さに目と頭が痛くなる。
「く、はっ! お笑いだよなぁ、コイツの飲んでるのはそんなお優しい代物じゃねえ! オーヴァードに覚醒するための薬だ!」
正確には覚醒を促すための薬だがな、と男は高らかに言う。
オーヴァード。その単語が出て、蓮羽は怪訝な顔になる。
特殊なウィルスに感染された、超越した者たち。だが、蓮羽のような一般人では、そのオーヴァードになるための手続きは、予防注射をするようにウィルスを注入することだ。
そう言った活動はFHでも推奨され、献血ほど盛んではないが、それでも月に一度は公立機関で行われている。
もしかすると、この藤本はそのために必要な薬を盗んで、服用したのだろうか。どんな薬も副作用はある。間違った用法で飲めば、一体どうなるのか。
「し・か・も・だ。覚醒を促すだけの成分だけじゃねえ、常習性があるんだよ。まさにイケナイお薬さまだよなぁ!」
「でも、それが何だって・・・っ!?」
藤本はオーヴァードになった。だが、それとこれとで男に何の関係があるのか。蓮羽は混乱して疑問を口に出した。
「アホか、お前。ここまで言ってまだわかんねえのか?」
救いようのない馬鹿だな、と男は蓮羽を見下した。
「この馬鹿は、薬をどっから手に入れたんだと思う?」
「え」
男の言い方は、まるで誰かが藤本に薬を渡したような言い方だった。
いや、まるでなんてではなくて。
そう、指摘していたのだ。
「その薬を、どうして飲んだんだ?」
男の声が、頭に響く。
どうして、飲んだのか。
「そして、その薬が欲しくてナニしたんだろうなぁ?」
薬欲しさに、行われた事。
少しずつ、露になっていくモノ。
「オーヴァードってのが、そもそも何なのか、本当の意味でお前らは理解してねえんだよっ!」
オーヴァード。
それは、人を超えた力を持った生き物。
外見は人間と同じ。生物学上、ウィルスによって進化した人の形だと言われている。
男は、それ以上に深い何かを知っていると言うのだろうか。
男は蓮羽が混乱しているのを無視し、藤本を睨んだ。その凄みの利かせ方は素人ではない。
「どうして」
「あ?」
漏れた言葉は、ほとんど無意識だった。それを聞き取った男は怪訝な顔をして聞き返す。
「どうして、そんなこと、知ってるの?」
「さあ、どうしてでしょう?」
にい、と男は笑う。そして、何かを招き入れるように、手を広げる。
「俺の仕事っていうかさぁ、俺は俺の視界に入ったゴミはキレイさっぱり消えなきゃダメだと思うんだよ。何て言うのー? 世界共通でゴミはゴミ箱へタッチイーンってカンジ?」
お分かりかな? と嘲るように、からかうように言う。
まるで、自分の歩く道に必要ないものは、この世界に必要がないと言うような身勝手さ。
傍若無人なまでの狂気を振りまきながら、男は哂う。
「理由なんてない。しいて言うなら目障りなんだよ、お前」
それは、目の前の存在を認めていない目だと、蓮羽は思った。
例えるならホームレスを見るような、野良犬を見るような、ゴミ捨て場を見るような。
どうでもいいものを見るような、死んだ魚のように濁った瞳。蓮羽は、その目を知っていたし、見たことがあった。だが、ここまでの否定の濃度を持った目は見たことがない。
「だからな―――」
男は哂った。しかし、その目に憂慮などなく。
「死ね」
・・・ヴぅ・・っん
その声を合図に、藤本は消えた。
比喩でも何もなく、姿が掻き消えてしまったのだ。
「えっ?」
どこに消えたのか、蓮羽が反射的に周囲を見回す。
そして、何かが変化した。

殺 ス

空から降ってきたような、頭に直接響くような、人間の喉では決して出せないであろう音がした。
それは確実に殺意を向けている。
誰に?
それは、他でもない。
無防備な人間にだ。

ギイインッ!!

金属と金属がぶつかる音がして、蓮羽は目の前の光景をあらためて見直す。
いったい、いつの間にそこにいたのか、男は蓮羽を抱え、藤本の腕を防いでいた。
そして、蓮羽は目を見開いた。
藤本の腕は人間の腕ではなかった。鋭い鍵爪の生えた、異形の腕。獣の腕というには、あまりにもかけ離れたものだ。
「はっ・・・! 笑わせるなぁ! 関係ない一般人を狙って、俺の気を引こうってか?」
「きゃっ!?」
男は蓮羽をいとも簡単に投げ捨てた。もう用はないのか、その目は藤本だけを射抜いている。
「甘すぎんだよっ、三下!!」
ざんっ!!
空間そのものを切り裂くような、斬撃が襲う。
「ひっ!?」
蓮羽は引きつった声を上げて、頭を抱える。男は、空中から襲い掛かった藤本を迎撃する。
ごぽり、と泥水の中から泡立つような音が聞こえる。男の手から、何かが流れ出した。水銀のような色をした液体だ。
その流れ出た水銀は、円を描き出し、やがて一つの武器になる。
チャクラム。この前、蓮羽が見たものと同じものを男は手にしていた。まるで手品のように現れたそれを、男は何の疑問もなしに投げ打った。
きききぎぎぎいいいいんっ!!!
凄まじい音が鼓膜を叩く。金属のこすれ合うような音は、藤本の異形なる腕はから生えた爪と、男のチャクラムとぶつかりあって生まれていた。
投げつけられたチャクラムは回転しながら、藤本の爪を削り取る。当たり前だ。このチャクラムは高速回転し、チェーンソーのような切れ味をそのまま体現している。ただ、硬いだけの無機物では太刀打ちできない。
だが、藤本も馬鹿ではない。鍔迫り合いをすればするほど不利なのは嫌でもわかっている。だから、藤本はもう片方の手でチャクラムを弾き飛ばした。
一瞬にして、硬化した鱗で覆われた両腕。それは爬虫類でも持っていないだろう、凶悪な破壊の腕だ。
「おうおう、キュマイラかぁ。いいねぇ、悪くないよ」
弾き飛ばされたチャクラムは、その半分が消し飛んでいた。横合いから削り取られたそれを、男は嬉しそうに眺めながら、水銀を流し込む。
「破壊行為、白兵じゃあ最強の症候群シンドロームだ。ぶん殴るしか脳がないところを見ると、それしかできねえのか?」
一瞬にして、藤本の身体から発せられた空気が変わった。馬鹿にするなと、その目が語っている。
「おいおい、俺はこれでも誉めてんだぜ? オーヴァードの中でもキュマイラみてえに、わかりやすく化け物なテメエらは嫌いじゃない」
「黙れっ!!」
ぎゅぅんっ、と藤本の姿がまた掻き消えた。そのいた場所から、砂煙が上がる。もはや常人の肉眼では追いきれない速さを持って、藤本は男に襲い掛かる。
「俺は、こんな、力なんかっ!!」
びっ、と男の肩口から赤い血が吹き出た。男は肩口からあふれ出たそれを見て、軽く舌打ちをする。
「欲しく、なかったんだ!!」
藤本はさらにスピードを上げ、今度は男の腹を切り裂いた。
ごふ、と男はその衝撃で口から血を吐き出した。一歩、二歩、後退る。
「俺が、欲しかったのは、そんなんじゃないっ! こんな化け物の力じゃないんだっ!!」
男は激昂する藤本など見ていなかった。自分の吐き出した血を見ると、死んだ魚のように虚ろな目で蓮羽を見た。
この切り取ったかのように悪辣な世界に入り込めなかった蓮羽には、その男の視線が意外だった。
そして、同時に男の無表情はやはり邦英に似ていると、改めて思った。
「俺が、俺が欲しかったのは・・・!」
藤本は、己の心情を搾り取るように、吐露する。
けれど、男はそれ見て、唇を歪ませた。
ゆっくりと、弧を描く唇。それが、あまりにもゆっくりとした動きなので、世界が止まったかのように思えた。
「そんな目で見るなよ。可愛がってやりたくなる」
ごぼっ!
水が爆発したような音がした。ぼこぼこと、泡立つ音をさせて、じゅくじゅくと不快な音が耳を打つ。
一体どこから、と藤本が周囲を見る。それは、意外に簡単に見つかった。
音を発しているのは、男の腹だった。
「・・・な、何だそれは・・・っ!?」
男の腹は、血があふれていた。先程、藤本によってやられた怪我だ。酷い傷だった。普通の人間なら、激痛で倒れてもおかしくない、おかしくないのに。
なのに、男の腹に傷はなかった。ゆっくりと傷口から血が戻っていく。まるで流れ出た血が、時間を巻き戻しているような。
これは、藤本の知らない力だ。身体の奥が熱くなり、傷を癒すことは多々とあった。だが、境界線のようなものが存在し、乱用し続けると、その治癒効果はなくなる。
だが、男の治癒は藤本のそれと根本が違う。ゆっくりと、でも確実に時間をかけて癒している。しゅう、と煙を上げる頃には、完治していた。
「・・・がっ!!」
唖然として男に見入っていると、肩口を抉り取られた。肉を食い千切られるような痛みが襲い掛かる。
「ぐがあああああっ!!?」
今度は、火で炙ったような痛みが腹にくる。腸を食い千切られるような、激痛。神経を削ぎとられているような、壮絶な痛みだ。
藤本の治癒能力は、もはや完全に停止している。ダメージは蓄積され、藤本は地面に膝をついた。
その目線の先には、虫がいた。
だが、それは虫ではない。蓮羽もその姿を見ると、吐き気がこみ上げてくるほど、おぞましいものだった。
百足に、羽虫のような羽の生えた生き物だった。赤黒いそれは、神経のような細い脈があり、びくんびくんと空中で痙攣を繰り返す。
口と思われる場所から飛び出た牙の先からは、赤い肉片と血が咀嚼されている。
「何、だ・・・こいつはっ・・・!?」
「何だ。これを見るのは初めてか?」
からかうような男の声。男はその反応が楽しくて仕方がないのか、指先で血をぬぐう。足元に落ちた血だまりを踵でこする。すると、それは起きた。
ごぼり
血だまりが沸騰した。ぶくぶくと、それは泡立ち、沸騰する。
泡立ったそれは、シャボン玉のように宙に浮いた。そして、目に見えない針で刺されぱちんと弾けると、そこには虫が生まれていた。割れたシャボン玉は、空中で気化して消える。
キィ、と鳴く虫は、世界中を探しても存在しないだろう。蜘蛛のようなフォルムを持つものもいれば、蝶に似た美しい形のものもいた。
その宙を楽しげに飛び交う虫達、全てに共通するのは赤という色だ。地獄の底から滲み出た炎のような、深紅。
この赤いシャボン玉は、きっと卵なのだろう。闇の中に浮き出るような赤は、目が痛いまでに鮮烈な存在感をかもし出している。
卵から生まれた虫は、キイキイと人間には聞き取れない声で鳴き、男の周囲を楽しげに飛び回った。
虫達はおそらく、男を主人だと知っているのだろう。男は飛び回る虫の一匹が指先に止まるのを見て、無邪気とも取れるような笑みを浮かべる。
ある意味、それは幻想的な光景だった。
そして、その虫の羽を愛しげに撫で上げ、言う。
「こいつらは従者だ。俺は虫が好きだから、この姿にさせている。可愛いだろう?」
蓮羽は唖然として、男に群がる虫を見つめた。男の言っている意味はわからない。だが、その虫は男の創造した存在だというのはわかった。
自然界に存在しない無視を模したかのような従者らは、不気味ではあったが、どこか儚げで美しかった。
「俺はブラム=ストーカー症候群シンドローム
ゆっくりと、男は己の従者から目を離し、笑う。
「自分の中に流れる血液を操ることができる」
ごぼっ!
また赤い色をした卵から、従者が孵化する。怖気を覚えるような光景だが、目が離せない。
「もうそろそろ、お前には飽きてきた。だから」
男は、ただ退屈そうに言う。この異常な世界の支配者であるかのように。
この地獄のような光景の中、わずかな怯えを見せたただの学生だった少年に向けて。
男は無慈悲に、それでも甘さを含めて別れを告げる。

「おやすみ」

その別れと共に、従者と呼ばれた虫が藤本へ群がった。
「う、うわあああああっ!!?」
何十匹という大群となった従者は、ドキュメンタリー番組に登場するイナゴの大群そのものだった。藤本も生理的嫌悪感を隠しきれていないのか、おぞましさに顔を歪める。
必死に両腕を使って叩き落とすが、間に合わない。従者が身体に張り付くのを見て、蓮羽は嗚咽をこぼし、口元を押さえた。こみ上げてくる吐き気は、油断すれば吐瀉してしまいそうだった。
ぱちんっ
そして、男が一つ、指を鳴らす。
「え」
ぼんっ、と言う何かが弾けたような、轟音。
当たり一帯が、一瞬真っ白に染まる。
男が指を鳴らしたのを合図に、藤本に群がった従者が爆散したのだ。
「あ、が・・・」
もはや直視など出来なかった。蓮羽は目の前にある惨劇と、焦げ付いた匂いが漂うそれに耐え切れず、意識を手放した。

――――――――――

「やりすぎとちゃいますか、クニヒデさん」
こつ、と靴音を響かせて、それは壁の影から姿を見せた。
シルエットからは性別は判別できない。白衣を着たせいで、その丸みを帯びた体型が隠れている。
そのせいで、何度も男性と間違えられた。短く切り上げた髪型も原因の一つなのだろうが。
その影は女性だった。縁なし眼鏡をかけた、見た目だけなら温厚そうな女性だ。
「ああ?」
男は“クニヒデ”と自分を呼んだ女を睨む。その名前で俺を呼ぶなと、身体全身で威圧する。
「その名で俺を呼ぶな。殺すぞ、クソアマが」
「あんたにクソアマ呼ばわりされるのは実に不思議な気分だぜぃ。って言うか、何で宝田ちゃんがいんの」
気絶し、完全に意識を失っている蓮羽を見て、女は、斉藤 庵は大いに肩を落とした。
彼女は一般人だ。斉藤にとっては、学校という名の隠れ蓑の中にある、退屈しのぎの対象だ。
しいて言うなら、お気に入りのぬいぐるみだろうか。愛玩動物のように、頭を撫でて、こちらから機嫌を取る必要のないところは、少し似ている。
「知らね。んで、このクソガキはどうする」
倒れ付した少年、藤本を“クニヒデ”は蹴り飛ばす。その死体は身体の半分以上が吹き飛んでいた。
目からは涙があふれ、口からはだらしなく涎が落ちている。肩の骨は完全に吹き飛んで、胃腸がわずかに見え隠れしている。なかなか凄惨な死体だ。
「うは、派手にやっちゃったのねぇ。まあ、ワーディングを張って、処理しやしょ」
「ああ。んで、情報は?」
死体の腕を手にとって、“クニヒデ”は斉藤に本題を持ちかける。
そもそも、この少年を殺せと頼んだのは斉藤なのだ。
“クニヒデ”は良く知らないが、学校全体で実験をしているらしい。しかも、個人ではなく組織で。
斉藤のバックについている組織の名は、ファルスハーツ。FHの通称で知られる、世界を直接支配するオーヴァードの団体だ。
「ありますよん。でも、宝田ちゃんは予想外だなぁ。これ以上、亡くしたら・・・・・邦英さんはどうなるんだろ」
それに“クニヒデ”は何も言わない。
“クニヒデ”は邦英の影だ。彼の存在があるからこそ、自分はここにいると認識している。
記憶もなく、気が付けば邦英という男になっていた自分にとって、邦英は日向の人間だ。日陰者の自分とは決して分かり合えない存在だった。
「俺は邦英さんのことが個人的に好きですよ。アンタは違うけどな」
それに“クニヒデ”は何を言っているんだとばかりに嘲笑う。自分を好いてくれるような人間が、化け物である自分を好いてくれるような人間がこの世界にいるとは思えない。
「だから、宝田ちゃんには手は出さないでおこう。宝田ちゃん自身、興味深い対象だからね」
たった一人で学校を孤立しようとする少女は、見ていて飽きない。
必死に流れをもがく姿は、いっそのこと哀れで、愛らしく見える。斉藤自身、この感情が歪んでいるのはわかっている。
そういう連中ばかりが集まっているのだ、FHという組織には。
「まあ、この死体はウチで色々と調べてみます。ウチの薬で売買している下っ端のお仕置きも、またお願いします」
「情報はどうした」
苛々とした口調で“クニヒデ”が言うと、斉藤はおお怖い、と肩をすくめる。その演技に“クニヒデ”は舌打ちを隠せない。
「メールで送りますよ。ああ、それと」
斉藤は思い出したかのように付け加える。その場を立ち去ろうとした“クニヒデ”は、無言で斉藤を睨んで、促した。
「近々、本部のエリートエージェント様が来るそうなんで、なるべく早めに始末つけといてください」
頼んだぜぃ、と斉藤のセリフを聞いているのかいないのか、“クニヒデ”は荒々しい足取りでその場を去った。
倒れ付した蓮羽とかいう少女を見る。どこかで見たような既視感があったが、気のせいだろう。自分にそんな能力はないし、過去なんてないのだ。
ガキ一匹、死んでいようが生きていようがどうでもいい。
つまるところ、“クニヒデ”は世間一般で言う悪党だったから、そう結論付けた。

翌日、宝田蓮羽は根性で学校へ登校したと聞いて、“クニヒデ”は少し彼女の認識を改めるのは、また別の話。





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