夕暮れ時。
治安が良いと世界で称される日本だが、ここ半年は波乱の日々を送っていた。
非オーヴァードのレジスタンス行為、いわゆるテロ行為。それが何度も繰り返されている。月に一度は起きているのではないかと疑う怒涛の勢いだ。
非オーヴァード主義者といっても大体は穏健派だ。大っぴらに反抗するなど子供のやることで、吹けば飛ぶような主張などがやんわりと存在しているが、それでも聞き分けの悪い子供のように爆破テロを起こし、てんやわんやの大騒ぎを起こすグループの存在は確実にある。
日本も同じように、反FH勢力は存在していた。大分、鎮圧されているが、それでも皆無というわけではない。
安全大国日本の神話は、音を立てて崩れ去ってしまった。
そんな中、一人で出歩く自分は相当だと蓮羽は思う。おそらく、この半年間での行方不明者は前年度よりも増加しているに違いない。蓮羽のクラスでも、何人かが転校したりしている。
噂では、日常生活を送れないほどの何らかの後遺症を得てしまったらしいが、真実は闇の中だ。確認したわけでもないので、憶測でものを言うのはどうかと思うので、蓮羽自身は何も言わない。
あくまで、噂。ゴシップの類だ。興味本位の、確認すらとれない流説に、そこまで怯えるほどのものではない。
蓮羽が怯えるべきなのは、のコンビニへ行ってから帰るまでの往復距離で、おかしな出来事――痴漢や引ったくり――に遭遇しないかどうかだ。もしくは、外に出る理由である買い物用品――牛乳が切れたので自発的に買いに行った――が品切れだった場合だ。
蓮羽はコンビニに入って、飲み物の置いてあるスペースへと向かう。人はそこそこで、蓮羽と同い年くらいの男子学生が部活帰りらしく、マンガを立ち読みしていた。
会社帰りのOLの横を通って、1リットルの牛乳パックを2本ほどかごに入れる。
「あ」
オレンジのパックジュースがあった。150ミリリットルのそれも、ついでにかごに入れる。ついでに甘いものが食べたくなったから、チーズケーキをかごの中に入れた。そして、牛乳プリンと、マスカットゼリーと、杏仁豆腐の三択に悩みに悩んだ結果、牛乳プリンに軍配が上がった。
甘いものは別腹だ。愛想のないコンビニ店員が「561円になります」と言うと、蓮羽は小銭がないことに気付き、千円札を出して、じゃらじゃらと大量の硬貨のお釣りをもらった。
家に帰って、母親と軽く学校のことでも話そうと、友人のいない彼女は真っ直ぐ家に帰ろうとした。
携帯電話は持っている。しかし、メールで話す相手も、電話でおしゃべりする相手もいない。寂しすぎる彼女のアドレス帳には、家の電話番号と、母親の携帯のアドレス、学校の番号しか登録されていない。目下、最近の女子高生では有り得ない、荒んだ携帯事情だ。だが、蓮羽が好んでしているので、彼女自体に嘆く権限などまったくないのだが。
蓮羽は、用事は終わったので早く帰ろうと、裏道を通り抜ける。コンビニと、その横にあるビルの合間は、距離はかなり長いが大通りに繋がっていているのだ。
普通に家に帰るなら、かかる時間は10分。裏道を通ればその半分だ。600秒が300秒になる。そんな単純な計算をして、蓮羽は迷うことなく、裏道を選んだ。
裏道に街灯はなく、ビルやアパートの立ち並ぶそこは、窓からもれた電灯の光が頼りだ。真っ暗なわけではない。わずかだが光はあるし、障害物である生ゴミ用のゴミ箱であるポリバケツやら、何が入っているか一切不明の詰まれた木箱の群れがどこにあって、何なのか確認できるくらいはわかる。
「・・・?」
ぱきん、と。何か音が聞こえた。何か、硝子のような材質のものが砕けた音だ。
そして、もう一つ聞こえてきたのは、怒号にも似た声だ。
「遅い遅い遅すぎる! 何だ、その反応速度は!? 殺してえのか遊びてえのかはっきりしろや、ああ!?」
罵声。そして、その余波で煙と、小さな欠片が散った。
「な、何・・・っ!?」

きぎゃああああっ!!

悲鳴が上がった。だが、それを悲鳴と呼んでよいのか、蓮羽にはわからなかった。
悲鳴というよりも、雄叫びだった。そして、人間の喉から発せられるとは、とても思えない声。
「――カスがっ!!」
びしゃああっ!!
また、誰かの声が聞こえたと思った瞬間、ビルに水が飛び散った。それは、かなりの距離を散らしたらしく、蓮羽の足元にまで届いた。
蓮羽と、声がする方の場所まで距離は、おそらく30メートル。小さな水滴といっても言いそれに、目を凝らして見た。
「何だ何だァ? んなに汚え地面が好きかよ。だったらそこで埋まってろ! オブジェにして、笑ってやるよ、ハハハハハハッ!!」
声が響く。そして、ごっ! という音と共に、水が飛び散る。
視界へと入った、飛び散った水滴数粒は、赤かった。ねっとりとしているが、それでも水のようにさらさらな液体だった。
そして、つんと鼻につく鉄錆びた匂い。その意味を理解せざるを得ず、蓮羽の身体から血の気が引いた。
それは血だった。真っ赤な、酸素を運ぶヘモグロビンによって象徴的なまでに赤く、体内を循環する液体。それも、かなりの量の血が噴き出てしまったらしい。
怯え、その場にとどまるしかできない蓮羽だったが、次の瞬間、かーん、とコミカルなまでに甲高く、何かを叩いたような音がして、太い棒のようなものが飛んできた。
降ってわいたようにどしゃっ、と音を立てて、足元に近しい場所にそれは落ちた。蓮羽は硬直した身体を動かして、それが何なのか確認した。本当なら確認なんてしたくないが、危機本能と、好奇心と、嫌な予想とがないまぜになった、ごちゃごちゃな感情が決定打となって、蓮羽はそれを見た。
「・・・、これ・・・」
それは、腕だった。
人間の腕ではない。似てはいた。ただし、鱗などの硬質的な何かで出来た、かぎ爪の生えたそれを、腕と呼んでいいものか。
人間で言う付け根の部分からは、どくどくと赤い液体が流れている。その鱗には血しぶきがこびりついていた。
轟音。謎の罵声。飛び散った血液。そして、人間ではない腕。
これだけの条件がそろったのだ。蓮羽は、本能に従って叫んだ。
「きゃいいやあああああああっ!!?」
だが、それが決定的な間違いだと、気付けなかったのは恐怖のせいなのか。
ゆっくりと、影が動いた。
「・・・あ?」
随分とガラの悪い声が聞こえた。ひ、と蓮羽は息を呑んだが、その場に縫い取られたように動けない。
ゆっくりと、声が近づいてくる。かつ、かつ、と響いてくる足音に、今度こそ蓮羽は腰を抜かした。
「ああ、そーいやぁワーディング張ってなかったな」
「あ、ああ・・・」
月光の届かないビルの合間にある裏道。近づいてくる誰かの顔は、この距離では見えない。
しかし、確実にこちらに向かってくるにつれ、シルエットは見えた。
おそらく、年は二十を過ぎた中頃の男だ。スーツを着ているが、ワイシャツを着崩して、ネクタイを首にかけただけであるのを見ると、不良サラリーマンのようだった。
腰にはベルトがあったが、ズボンを締める役目ではなく、派手な金属細工の飾りを重視したベルトをだらしなく緩々と垂らしたようなものだ。
サラリーマンが、無理やり悪ぶったような格好だが、決定的な違和感が両手に存在した。
その両手に持っているのは、巨大な輪だった。30センチ以上はあり、男の手首から肘の長さよりも長い。その色は金属の銀ではなく、周囲の闇を吸い尽くしたような漆黒の光沢を放っていた。
漆黒のチャクラム。物語から飛び出たような武器だった。
「邪魔くせえ・・・まあ、いいか。なあ、嬢ちゃん」
「は、はい?」
嬢ちゃんとは、やはり自分のことだろうと、蓮羽は上ずった声で返事をした。
だが、その背中を駆け巡る悪寒をどう表現すべきか。小説や漫画では、このような展開がどうなるのか、嫌でもわかる。

「悪いな、死ねよ」

謝っているが、まったく謝罪になっていないその声と共に、男の手の内にあった輪が超高速回転する。
ぎぎぎぎぎぎいいいんっ!!
耳につく音に恐怖した。チェーンソーのような音を出す凶器に、息を呑んだ蓮羽は、その場にへたり込んだ状況から、さらにしゃがみこんだ。
びゅんっ、と輪が飛んできた。それは、蓮羽のカシスレッドの髪の毛数本を吹き散らし、刈り取った。持っていた鉄の輪、それはチャクラムだった。忠犬が主人のもとへ走っていくように、男の下へと戻る。
何が起こっているのか、麻痺した脳内で整理する。そして、やっと一つのことに気付いた。
目の前に広がる、赤。男は、血塗れだった。まさに致死量の血を浴びている。それなのに、男は平然とし、蓮羽を気怠るそうに見据えている。
蓮羽は呆然としたが、やがて一つの、当たり前とも取れる答えにたどり着いた。
あの血は、突然の血の雨にでも当たってできたそれは、全て返り血ではないか。
それはまるで家畜の解体作業をするように人を殺し、この男は血を浴びたのではないだろうか。そして、その現場を見られ、目撃者を始末しようとしているのではないのか。
こみ上げてくる吐き気を抑え、蓮羽は腕を使って退った。
「大人しくしろよぉ。痛いのは嫌いだろ? 俺も痛いのは大嫌いだ。おそろいだな」
当たり前だ。痛いのが好きだなんて、そんな趣味はない。断じてない。
蓮羽は後ろに下がりながら、涙目になりながら男を見上げた。絶体絶命。それはまさにこの状況を指し示すためにあるのだろうとさえ思えてくる。
視界はぼやけていたが、殺人犯の顔くらい認識できた。
月光を浴びて、猟奇犯の顔が浮かび上がる。
白いかんばせ、黒い髪、黒い瞳。東洋の顔立ち。
邪悪な弧を描いた赤い、紅い、緋い唇。
知っている。その白面を。何も着飾っていない、その顔を。
「・・・え?」
「ああ?」
死を前に狂ったのか、そんな目で男は蓮羽を見下ろした。けれど、違う。そうではない。それは死を前にしたにしても、随分と間の抜けた声だったのだ。
それは、偶然、街中で知り合いに会って、思わず声を上げてしまうような、ごく自然な、自然すぎる声だった。
蓮羽は、この男を見たことがあったことに気づいたのだ。
そして、その顔が身近に存在することに。
「・・・先生?」
そう呟いた、刹那。

ぐぎゃああああああああっ!!

叫び声が、夜の静寂を切り裂き、襲い掛かった。
蓮羽も、男も、驚いた顔になって、それを見た。
背後にいるのは、異形の化け物だ。鋭く尖った爪を持った、毛むくじゃらの化け物。片腕をなくし、その痛みから逃れるためか、がむしゃらにこちらに突っ込んできたのだ。
先程、蓮羽の足元に落ちた腕の主なのだろう。その標的は、腕を切り飛ばした張本人だ。
「ちぃっ!」
止めを刺しきれなかったことに、舌打ちしながら男はチャクラムを投げつけた。
しかし、化け物はその巨体に似合わぬ俊敏さで、それを弾いた。
「弾いたっ!?」
これには男も驚愕した。化け物も馬鹿ではないらしい。どうやら、かぎ爪の一部を当てて、回転を止めて弾いたらしい。
大きく爪を振りかぶる。男に避ける術はない。

ざぐっ!

肉をえぐる音がした。始めて、男は血を流した。相手の血ではなく、自分の血を。
だが、男はよろめかなかった。逆に、化け物を見据えて、手の内にあった大降りのナイフを躊躇なく突き刺した。
化け物が呻いた。
蓮羽はそれ以上、何も言わなかった。これは好機だった。
「・・・っ」
もう、こんな場所には用がないとばかりに、蓮羽は走った。男も化け物も、それを止めようなどと思っていない。
蓮羽は走った。
こんな悪夢は、もう忘れてしまいたいとばかりに。

――――――――――

有り得ない、絶対に。
蓮羽は家に帰ってから、毛布をかぶったまま一睡もせずに夜明けを見た。
夜明けの空は、薄い黄色で、不思議ではあるが太陽が沈む夕焼けを巻き戻したように感じた。
そして徹夜をすると、世界が黄色く見えるのは、夜明けの色に染まっているからだと思った。
頭が痛い。寝不足によるものだとわかっている。
蓮羽は学校では邦英に会いたいような、会いたくないような、複雑な気分で過ごした。
(あの人は、誰だったんだろう)
忘れようと努力した。あの悪夢の夜を。
だが実際に忘れられるわけがない。忘れるものか。
あの、月光をわずかに受けて見えた顔。
あまりに雰囲気が変わりすぎたせいで、まったく気が付かなかった。
声も似ていた。口調が違いすぎるせいか、気が付けなかった。
そんなことをうんうんと唸ったせいで、蓮羽は授業にまったく集中できなかった。いつも楽しみにしているはずの、邦英の担当する古典の授業がないことが、今日だけは嬉しい。
顔をあわせて何て言えばよいのか、わからない。きっといつものようには接することは出来ない。
あの夜を境に、何かが崩れ落ち、何かが変わり果ててしまったのだ。
そんな蓮羽に残された手段は、ただ一つ。
「・・・尊敬する人の、意外な素顔に戸惑ってしまったのですが、どうすればいいんでしょー?」
まったくもって、やる気なく蓮羽は斉藤に聞いた。その態度はいつもの授業態度が愛らしく見えてくるほどの、やる気のない問いかけだった。
「・・・それが人にものを聞く態度かい、宝田ちゃん」
さすがにこの態度には、滅多に眉をひそめずに笑って話をかわす斉藤も呆れていた。
何といっても、花の女子高生である蓮羽は、職員室あるようなデスクに頬をよせて、足は開ききり、いわゆる完全にダレている状態と化している。
正直、直視したいものではない。いわゆる女の子の闇の部分を全開に出し切っている。正直、この姿を憧れの邦英に見せたらどうなるのか、それを想像するのも億劫であった。
「いいから、答えてください。斉藤センセー。こーゆー時以外で役立つことはないんでしょ?」
「君は養護教諭を何だと思っているんだろーねぇ?」
斉藤が呆れながら、コーヒーの入った紙コップを渡す。自分で飲む分は彼女専用の白い無地のマグカップに入れる。斉藤の私物だ。
「健康優良児には関係ねえ所ですたい。あ、ミルクぷりーず。角砂糖もあればモーマンタイです」
「古い言葉を使うんじゃねえよ、お前はいつの時代の生まれだ」
普通だと思うけどなぁ、と愚痴りながら蓮羽は渡されたミルクを入れて、コーヒーをカフェオレにした。彼女にはまだブラックコーヒーの良さはわからないので、一応は斉藤なりに配慮したものだ。
「で、どうなんでしょ。意外な一面を知ってしまったので、どのように対処すれば・・・」
蓮羽は暗い顔で、陶器の入れ物から砂糖をスプーンで二杯ほどすくって、紙コップに入れてぐるぐるとかき混ぜた。
「ンなこと言われてもなぁ、その意外な一面ってのが何なのかわかんねえし」
香り高い匂いを楽しむように、斉藤はぐいと一気にコーヒーを煽った。
「意外な一面は意外な一面ですよ! 例えるなら、アレです。優等生な委員長が、高笑いをしながらチューリップを引き抜いている場面を見たような!」
「アレか。不良が雨の降る中、子猫を拾ったら良い人に見える法則か?」
「そんな感じですー」
言って蓮羽は空気の抜けた風船のように、うなだれた。
「・・・邦英センセ、か?」
びくっ!
蓮羽はそれにわかりやすいまでに反応した。
「な、なぜに!?」
「だって、お前、わかりやすいもん。わかんねえ方がおかしくね?」
「ぬぐっ!」
女子あるまじき腐った悲鳴を上げるが、蓮羽はそれ以上に精神ダメージをくらっていた。
「んでぇ、思春期真っ盛りの宝田ちゃんはぁ、どーんな青臭ぇ悩みを持っているのかしらぁん?」
「うぐぐぐ・・・」
斉藤は完全に遊んでいる。というよりも楽しんでいる。にやにやと笑うそれをやめない。
「・・・ちょっと、本当に様子がおかしかったから」
蓮羽は唸るのをやめて、冷たいデスクに頬擦りしたまま言った。顔を斉藤に見せずに、静かに言った。今の自分の顔を、誰かに見せたくはなかった。
「・・・ふうん」
「口調が違ったし・・・別人みたいだったし・・・」
んむ、とここで蓮羽は顔を上げる。
そして繰り返す。
顔が同じで、口調が違って、別人みたいだった?
「・・・そっか! 生き別れた先生の双子のお兄さまね!!」
蓮羽は己の考えを大声で述べた。それを聞いて斉藤はずるっ、と手を滑らせた。マグカップは机に置いてあったので、なんとか無事だった。
「オオイ! 最初に気が付かないか、その説はぁ! お約束過ぎんだろ!」
双子。
邦英に兄弟がいたことなど知らない。聞いたことないのだから当たり前だ。
顔も同じ。声も同じ。それに繋がる答えはおそらく、これだ。
「そっか、そっかあ! だからあの人は殺すだの死ねだの、ぐだぐだ言ってると犯すぞこのメスガキだなんて、下品な言葉を使ってたのね!」
何やら一部妄想が入っているが、斉藤は何となく事情を察し、想像力を使ってその場面を妄想するが、脳内拒絶が起きた。色々と有り得ないものというのは、起こることがないからこそ、有り得ないのだ。
「・・・別人じゃね? あの邦英センセがンな下品な事を言うかよ? キモいって」
「ですよね! やっぱ別人? ・・・でも」
だとしたら、名前すら知らない彼は、何をしていたのだろう。
それに、あの時現れた化け物は何だ?
それ以前に、あの男は生きているのだろうか?
化け物に腹を突き刺され、立ち尽くしていた。あの時は恐ろしくて、逃げてしまった。

彼は、生きているのか?

致命傷とも言える傷を負い、彼は生きているのか。死んでいるのか。死んでいればニュースになっていてもおかしくないが、今のところそんなニュースはない。
謎は、尽きない。
生きているのか、死んでいるのか。
昨日のことは現実なのか、夢なのか。
急激に冷えた世界を目の前に、蓮羽はもう一度、同じ道を通ろうと決意した。

それが、運命の岐路ターニングポイントと気付くのは、まだ先のこと。




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