日常なんて不満だらけだと、彼女は思う。
明日のテストは受けたくないし、明後日の体育はかったるいし、その次の日に学校へ登校すること自体が面倒だ。
そんなことを考えながら、高校に入って染め上げたカシスレッドの髪の毛を指先で弄ぶ。
朝の登校時間、昔懐かしい古びた商店街を抜ける途中で、テレビから発せられるチカチカする映像にふと目をやった。
『オーヴァードこそ、これからの我らに必要なものなのです!
我らはレネゲイトウィルスを用いて、さらなる発展を遂げていくべきなのです!!』
どうやらお偉い政治家がニュースで、苛ただしいまでの主張をしているらしい。ぱっと画面は変わり、リポーターが冷静に政治家の考えをまとめあげる。
ここ半年で、何と日本政府や、アメリカなど世界中の巨大国家が崩れ去った。
支配者がかわったのだ。
そして、異例の若さでスピード出世した政治家がアップで映る。
20代という異例の若さで国会議員という職と立場についたその男は、顔も良く、頭も切れ、子供でも理解できる政治目標を持つ男性で、若年層から団塊世代、果ては被爆経験者の年代までファンが多い。
その凄まじい人気っぷりを発揮している政治家――犬養はマスコミの今後のファルスハーツはどうなりますか、と聞かれ、冷静に対処している。別段変わりない風景だ。それは当たり前に浸透して言った光景だ。
オーヴァードだの、ファルスハーツだの、そんな単語が一気にあふれ出したのは、半年前のことだ。
そう、今までの普通の生活はつい半年前に音を立てて崩れた。世界各地で起こったテロ活動によって。
大雑把に説明するならば、各国の都心部で爆発事故が起きたのだ。被害は相当なものだった。
爆弾を仕掛けられたとか、ウィルス兵器によるものだとか、とにかく世界は大惨事となった。当然と言えば当然だろう。深夜、コンビニに行くのに殺人鬼と居合わせるなんて有り得ない。文字通りの死角から仕掛けられた攻撃は、まさに背後から話しかけられ、何の気なしに振り返るとプロボクサーに鳩尾をぶん殴られ、リハビリを余儀なくされる生活を送るに等しかった。
誰が放ったかもわからない必殺の一撃は、ありとあらゆる影響を与えた。
その被害者の死亡数は過去の日本最高で、現在に至る歴史の授業では世界最大最悪のテロ行為と記憶されている。
それについてわかった真実がある。
一つ目に上げられるのは、ファルスハーツ。通称はFH。現在、この世界の支配権を握った、中枢組織。
つい半年前に起きたテロを鎮圧し、蔓延した奇病の治療を率先した集団だ。世界各国、至る所にその人材を派遣する組織で、世界規模の優秀な派遣会社のようなものだ。
そして、レネゲイトウィルス。このウィルスがテロの要となった兵器らしい。
このウィルスに感染したものは、尋常ではない力を得るというのがファルスハーツの見解だ。テロによって撒き散らされたウィルスなので、感染者の数は現在増加している。
ワクチンはない。だが、発症した場合、必ず死ぬわけではない。むしろ、逆に人知を超えた力を得るらしい。そして、ファルスハーツはこのレネゲイトウィルスの解明に力を注いでいる。
むしろ、死地を救い、世界に希望をもたらすであろう新種のウィルスであり、世界中から注目を集めている。
最後に、オーヴァード。レネゲイトウィルスに感染した、超越者。感染者とも言われ、ウィルスに感染したが私生活に影響なく暮らしていける人間のことだ。
また優位者とも言われ、その能力を重んじてか優遇される。詳しいことはわからないが、ウィルスの研究のために必要な人材として重宝される。そして、今現在、世界の中枢を握っているファルスハーツが、このオーヴァード優位主義だ。
俗っぽく言えば、優れた人間が社会を動かして何が悪い、ということだ。
ファルスハーツ、レネゲイトウィルス、オーヴァード。以上の三つの単語が、世界に広まった。
何て馬鹿らしいのだろう。まるでSFだ。三文映画でもあるまいし。
あまつさえ、そのファルスハーツとやらに対抗するため、武装勢力などの反抗集団が存在するなんていう噂もある。
支配された整然とした世界に、周囲は素晴らしいと思っているが、ただ一人、この世界で、今日も日常とやらを過ごすのにうんざりしている。
そんな風に色々と世界に絶望し、カシスレッドの髪をした彼女の名は、宝田 蓮羽。
テレビを見て、下らないことを言うバラエティの司会者に失笑し、少子化を抱える日本に絶望している、この国において一般的ではない思想を持つ、それでも普通の少女。
彼女はまだ、知らなかった。知る由もないのだ。
世界は、すでに変貌していることに。
――――――――――
学校へ行くと、別段と変わりない風景が待ち望んでいる。時は勝手に過ぎて、人を当たり前という光景に溺れさせる。
蓮羽は学校が好きではなかった。大きな流れに呑まれる寸前の、溺れかけた状況を――実際にそんな状況に陥ったことなどないが――思い出させるからだ。そして、周囲が正しいと主張するその濁流のような流れに呑まれるのを良しとしなかった。
人間は社会的動物だと、大昔の哲学者は語る。蓮羽はそれが変えようのない絶対的な真実であることを知っていたし、理解もしていた。
だからこそ、なのだろうか。蓮羽はその規律を守ろうとは思わなかった。孤独を恐れなかった。学校と言う小規模社会で、蓮羽は一人だった。学校では浮いた存在という自覚もある。
しかし、あの迷える子羊のような、流れに身を任せたような事はしたくない。この現代に、搾取し、税を払い、封建制度がいまだに残っている学校が、クラスという集団が何よりも恐ろしい。嫌悪していると言ってもいい。
なぜそこまで学校を嫌悪するのか。それは蓮羽は知っているからだ。知ってしまったからだ。
あれはいつのことだったか。お隣に住んでいた幼馴染でもある、年上の女性の自殺未遂。遺書はなかった。代わりに病院に運ばれる途中、白い腕を見た。傷の刻まれたそれは、正気のものとは思えない。
白い腕にある赤い筋。とにかく怖かった、恐ろしかった。それだけは鮮烈に覚えている。
その幼馴染は学校で人間関係に悩んでいたと、後からそう聞いた。いじめられていたのだ。
蓮羽は当初、わけがわからなかったが、成長して理解し、それを悪辣なまでに嫌悪し、同時に恐怖した。
集団に、学校と言うものになじめなければ、ああなってしまうのか、と。
蓮羽はそれに立ち向かうように、まさに魔王に挑む勇者のごとく、学校にある集団を避けまくった。部活には入らないし、クラスメイトと話すことはない。蓮羽のクラスには面倒見の良い委員長や、明け透けに接してくるような世話を焼くおせっかいな人間はいなかったのだ。そんなものは現実に存在しないのだ。
何度か困ったことは起こった。それは一人だけ連絡事項を聞き忘れても誰にも頼ることができなかったり、体育の時間に柔軟運動の相手が見つからなかったりなど、様々だ。
生憎と目立たないようにしてきたので、幼馴染を死へと追いやった“いじめ”には出会わなかったが、それでも不自然な存在だった。
三者面談で、教師にその反社会的とも言えることを注意されたのは苦い記憶だ。蓮羽をどのように扱うか、それは教師によって様々だった。その反応は大まかに分けて二等分され、完全に無視し存在しないものと扱うものか、なぜと問いかけてくるかのどちらかだ。
そして、その時の教師はどちらでもなかった。蓮羽をどう扱っていいものか、まるで彼女を起爆剤だとを言わんばかりに、あたふたと焦っている。
そんな風に、しどろもどろと蓮羽の学校生活を伝える教師の目を、母は真っ直ぐに見据えて言った。
「この子は人との付き合い方が下手なだけです。それだけですよ」
そう言われた瞬間、蓮羽は母が大きく見えた。教師はそうですね、と愛想笑いをして場を流した。いじめにあったわけでもないから、という付加理由もある。
そんな中学時代の三者面談の帰り道、夕暮れに染まる街並みを母と歩き、喫茶店で甘いものをつついたのは、良い思い出だろう。蓮羽にある繋がりは、おそらく家族である母だけではないかと、そんな風に思ってしまう。
母子家庭で父親が不在である境遇を幼い頃に、心無い言葉で傷つけられたのも、集団に属さない理由の一つかもしれない。
学校へ行きたくない、と思ったこともあったが、温和であるが頑固な母はそれだけは許さなかった。恨みもしたが、結局自分は母に保護されているのだ。それを捨てるほどの勇気はなく、愛着はあった。
そして、宝田 蓮羽は少し変わった、それでも限りなく一般的な生活を過ごしてきた。
だから、今日も同じように過ごす。
変化のない、日常の世界を。
――――――――――
授業が終わった昼休みは戦争だ。
「・・・・・・・・・」
購買はまさにゲリラの巣だ。焼きそばパン、メロンパン、クリームパン、サンドイッチにドーナッツ。夏場はプリンやアイスクリームが売られ、ものの昼休み開始から五分後で売り切れる。
今の限定商品はヨーグルトだ。飲むタイプも中々の人気を誇っている。
「乳酸菌はあきらめようか・・・」
凄まじい人の壁に、蓮羽はため息をつく。我先にとがっつく生徒の姿は、はっきり言って恐ろしい。まだ食券を購入し、限定トンカツ定食――肉が標準より1.5倍も厚い――を食した方が精神的被害は少ない。だが、お財布の中身にクリティカルヒット、つまり財政難に陥りそうだ。
蓮羽の本日のメニュー(仮)はあんぱんだ。言っておくが決して隠語としてのあんぱんではなく、あんこのぎっしり詰まった日本の奥ゆかしい心積もりの入った菓子パンだ。
黒ゴマでトッピングされたそれは、前日にコンビニで購入したものだ。
そして、飲み物はない。甘いもの好きで、メロンパン一つで半日は持つ蓮羽にとって、水分は重要だった。
それを知ったのは夏休み中のことだ。母がおらず、自分でご飯を作るのが面倒なので二週間ほど何も食べずに生活していたら、とうとう倒れた。恐ろしいことに、冷たい麦茶だけを朝と昼に飲み下し、生活していたのだ。しかし、麦茶だけで二週間も持つとは水分補給は大事だなぁと、蓮羽は病院で点滴を打たれながら改めて思った次第である。
じい、と蓮羽は購買の横、くりぬかれたようにある広場にそびえる自販機を見る。パック式のジュースが並ぶものと、紙コップのジュースの自販機がそれぞれ二つずつ。
ひとまず紙コップのほうが安いので、そこから選ぼうとする。
炭酸飲料は嫌いではないが、疲れたときに飲むのが一番だと思っているので、選択肢から外れる。
甘さ控えめなフルーツジュースにするか、シンプルな牛乳一本か、甘ったるさが魅力のカフェオレか。
数秒ほど悩んで、硬貨を入れる。そして、ボタンを押す。その刹那だった。
っどがばぐああんっ!!
自販機が、爆発した。
爆発音を発したのだから当たり前だが、蓮羽の頬を浅く切った。プラスチックの破片が飛び散った勢いで、浅く切れたらしい。
それはいい。それはいいが、一体全体何が起こった。目の前の自動販売機が爆発するなんて光景、普通は見れない。
爆発と言っても、コップのレプリカなどが並んだ段の一つが、ストレスを発散するみたいに飛び散ったのだ。音は派手だが、そこまで威力はない。その証拠に至近距離にいた蓮羽は、頬を浅く切っただけで済んでいる。
一瞬だけ、しんとなったが、やがてざわめきが元の居場所へと帰っていく。ボタンを押したまま、蓮羽は硬直し、それからまったく動かない。
そして、後ろから会話が聞こえてきた。
「バッカ、お前、何やってんだよー」
「うーん・・・風を集めて、圧縮したのを自販機にぶつけたんだけど」
「学校でやるか、普通」
「お前がやれっていったんだろ!! エフェクト見せろって!」
そう言って男子二人は、自販機の様子を眺め、明るく話しながら去っていく。一見、世間話に聞こえなくもないが、色々とおかしい。
エフェクトとは何なのか。必須科目の一つである社会や歴史に、最近付け加えられたもの。文字通り、オーヴァードの使う能力の効果のことだ。
それがこの学校では日常的に使われている。
大体、どの学校でもオーヴァードと、何の力もない一般人とは区分される。
悪い意味ではなく、オーヴァードと非感染者では、単純な力に差異がありすぎるせいだ。
その差は、小学生と大学生ほどにある。その優位性は揺るがない。
だが今の状況はそんなことでは処理しきれない。
おかしいおかしいおかしいおかしい、有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない!!
自販機にお金を入れてジュースが出なかったというのも嫌だが、ジュースを選んでボタンを押した直後エフェクトで自販機が破壊される。蓮羽の状況はそういったものだ。
ふざけんな、と蓮羽は思う。
お金を入れてジュースをさあ選ぼうと思った矢先、思ってもいない別のボタンを押されるよりも遥かに腹が立つ。
そして何よりも腹が立つのは、力を行使し、その被害を考えもせず、無責任に振舞うオーヴァードだ。自分の力を制御できないくせに、自慢げに思うがままに暴れるくせに。
これだから蓮羽はオーヴァードが嫌いなのだ。
(毒ガスを吸って体中を釘に刺されノコギリで首でも切られちまえ!!)
蓮羽はその顔に似合わぬ凄惨なる罵詈雑言を心の内に撒き散らし、それを発散するかのように壊れた自販機を蹴りつけた。
――――――――――
怒りを込めて、蓮羽は歩いた。外は爽やかな小春日和で、ご飯を食べるに相応しい。蓮羽は気を取り直して、校舎を抜ける。中庭で食べようか、しかし先客のことも考えねばならない。
他人様のうららかなお昼時を、無理やり壊したくはない。蓮羽は常に一人であるが、他人が嫌いなわけではない。ただ、少し苦手なだけだ。
「・・・い、俺・・・すれば・・・」
ぴたりと。
蓮羽はふと足を止めた。声が聞こえた。聞こえた教室は普段は滅多に使用されない、生徒指導質室だ。
鉄棒に引っかかった黒いプレートは、白いチョークで丁寧に「生徒指導室」と書かれていた。蓮羽はこの生徒指導室がこの学校内にある教室の中で、一番無意味な教室ではないかと思っている。
学校とは勉強する学び舎だ。それを指導する部屋が生徒指導室だが、一般的なクラスで割り当てられる教室と何が違うのか。生徒相談室が存在するこの校舎では、教師は誰もそこを使おうとは思わない。ただ、平たいテーブルと椅子があるだけの指導室より、コーヒーメーカーや紅茶やらの嗜好品がある相談室の方が気安く利用しやすい。
だから、ここは誰もが使わない。良くてサボリに使ったり、椅子など並べて簡易ベッドを作って寝転んだり、タバコを吸ったりなど、反抗的な目的で使われる。
さらに言わせてもらうなら、ここに呼び出される生徒は、カツアゲされるか、秘密裏に私刑を加えるか、どちらかだ。
しかし気弱な声は、何か違和感があった。暴行を受けている際に出す声とは違う、目の前の状況に怯える声ではない。
「・・・大丈夫だ。君は、自分を大事にしている。それは、とても簡単に見えて、実際は難しいことだ」
張りのある声だった。優しげなそれは、聞いていると穏やかな気分になってくると錯覚しそうだった。
「・・・そう、でしょうか」
それに続いてまた聞こえる、か細い声。どうやら男子らしい。クラスメイトかどうかはわからない。
「自分を保つと言うことはね、自分を好きになると言うことだ。自分を大事に思いなさい。そして、もっと自分を好きになるといい」
「でも、先生、僕は自信がないんです・・・また、何も覚えずに、気が付いたら・・・」
諭すような、優しい口調。しかし気弱な声はどこまでも気弱で、ヘタれていた。
「・・・僕は、君に何もしてあげることはできない」
ふと、声のニュアンスが変わる。それは事実だが、伝えるのをためらうような、己の無力を嘆くような、そんな声だった。
「だから、考えよう。君を助ける事を、精一杯に。頼りないかもしれないけど・・・今はそれしかできない」
それにしばしの沈黙が訪れた。蓮羽は気が付けばこの会話に聞き入っていた。一体何を話しているのだろう。進路指導ではない、何かもっと身近にある精神的なことを相談されているのか。とにかく、内容はさっぱりだ。
「・・・ありがとうございました」
相談していた方は、がっくりと落ち込んだようにお礼を言った。声は随分と沈んでいた。とてもありがとうとお礼を言う声ではない。
がらり。扉が開いた。出てきたのは、見知らぬ男子生徒だった。その場で話を聞いていた蓮羽は、硬直した。条件反射のようなもので、動けなかった。それは相手も同じで、目が合ってしまった。
蓮羽は数秒して、会釈をした。男子はそれを無視して、蓮羽がやってきた方向へと向かう。おそらく第一校舎、自分の教室へ向かうのだろう。それにしても愛想がない。
まあ、一瞬だけだったが、その顔を見て納得をした。相談していた男子生徒の顔は、恐ろしく覇気がなかった。まるで枯れ木のようで、生きているのかさえ疑うほどの存在感だった。まるで人生に疲れきった老人のような背中は、およそ十代の少年には相応しくない。
ふらっ、ばたんっ!
男子生徒は音を立てて、蓮羽とすれ違ったのを合図にしたかのように倒れた。
「なっ!?」
蓮羽は衝動的に、男子生徒に近寄った。そして、抱きとめるまでにはいかなかったが、その顔を覗き込む。
青白い。頬骨が見えるほどやせこけ、見るからにやつれている。まるで、物の怪の類にでも取り憑かれたようだった。
「だ、大丈夫・・・?」
声をかけるが、反応はない。気絶しているようだった。
「藤本君っ」
ワンテンポほど遅れて、生徒指導室の扉が開く。どうやら物音と蓮羽の声により、異変に気付いたらしい。
「あ、宝田さん、藤本君は・・・」
そう言って声をかけてきたのは、一人の男性教諭だった。
気の弱い垂れた眼に、ざんばらにかきつけた黒髪。近眼らしく、ずれた銀縁眼鏡が何とも頼りなさをかもし出している。
邦英 充三。紺色のスーツと、しわのよったワイシャツに身を包んだ、20代後半独身の古典教諭である。
そして、蓮羽のクラスの担任で、邦英ちゃんやら充三っちなど、ふざけたあだ名で呼ばれる幸の薄い先生だ。
「邦英センセ、この人、倒れちゃったんですけど・・・」
「・・・疲れてたのかな。ごめん、宝田さん、ちょっと付き合ってくれる?」
優しげな声は、教諭というより全てを許す神父のようだった。蓮羽はその天におわします慈父のような笑みを浮かべる邦英の声に、こくこくとうなずいた。
「は、はい、全然構いませんよっ」
お昼ごはん抜きになるかもしれないなぁ、と蓮羽の中の声が言う。だが仕方ない。邦英の頼みなら蓮羽は無茶な要求でない限り、引き受ける。
蓮羽にとって邦英は、母親をのぞき、学校内で唯一心を許せる存在だった。
教師というものは、傲慢だ。蓮羽はその事を嫌というほど味わっている。
三者面談で、友人を作ろうとしない蓮羽の扱いを面倒に感じたであろう教師。
うっかり居眠りをしていた蓮羽に、執拗に嫌味を言ってきた教師。
上っ面だけの心配をして、結局は何もせず傍観していた教師。
言葉にすれば、きりがないほどの傲慢さと無能さを持ち合わせた教諭という存在に、蓮羽はまるっきり失望していた。
何もするつもりがないくせに、上辺だけのお綺麗な感情を押し付け、生徒のトップに立っているのだと勘違いをする人種。
蓮羽は、そんな下らない勘違いをする教師が嫌いだったし、関わりたくないと自負していた。
しかし、邦英だけは違った。彼は蓮羽の生き方に異議を唱えなかった。
ただ、そんな事もできるんだね、すごいねと、逆に褒め、認めてくれたのだ。
誰とも関わりあわないということは、集団に属さず、孤独を片手に抱えて生きていくことだ。それは、想像を絶するほどに痛みを伴う。
集団に属さぬゆえに、集団を敵に回し。孤独を片手に生きるがゆえに、孤独なる毒を抱え込み。
蓮羽はそんな生き方を選んだ。それは、ある意味で今の社会を否定していることにつながる。
自分の生き方を否定するものは多かったが、それを認めてくれるものはいた。
それが蓮羽にとっての母親と、邦英である。
蓮羽にとって邦英は、学校生活を送るのに必要な心の支柱なのだ。だから蓮羽は邦英が好きだった。恋愛感情ではないが、憧れに近しいものだと自覚している。
「じゃあ、宝田さんは足を持って・・・保健室に行こう」
「はい」
男子生徒の脇を持ち、邦英は蓮羽に促した。蓮羽はうなずき、男子生徒の足首を持つ。油断すれば靴が脱げてしまいそうだった。
そして、蓮羽は保健室に向かった。
――――――――――
保健室の第一印象といえば、まず消毒薬の独特の香りだ。
蓮羽はこのアルコールの香りが微妙に好きだ。なぜか落ち着いた気分になる。それを母親に話したら、ものすごく微妙な顔をされた。一体何が悪かったのか。
「すいませーん、病人です」
「ああ、適当に寝かせといてー」
蓮羽が声をかけると、養護教諭は背を向けながらひらひらとベッドを指さす。保健室のベッドはサボリに使用されやすいが、本日は昼休みを保健室で過ごす連中はいなかった。
「んで、本日のご用件は何かしらん。んん、火傷か、凍傷か、打撲傷か、切り傷か? 薬物中毒は専門外だ」
職員室で使われているものと同じ机に向かっていたその人は、椅子をくるりと回転させ、蓮羽と邦英の方へ振り向いた。
邦英とは違い、年がら年中眼鏡を装着した養護教諭、斉藤 庵は猫のように笑っていた。
喋り方は非常に独特であるが、その性別は女性。金茶色の、短めに切り上げた髪型から、たまに男性と間違われるらしい。
眼鏡を毎日変えるのを楽しみにしているらしく、本日の眼鏡は、太めの赤縁だった。その趣向を別のものに費やせば、少しは女性らしく見えるのに気付いていない。
「そんな犯罪が今の日本、学校内で行われるんですかぁ?」
斉藤の言葉を受け取りながら、蓮羽はすたすた邦英と二人三脚をするようにてきぱきと男子生徒をベッドに寝かせた。
「いやいや、中毒症状は舐めたらあかんぜよ。一時期、住宅街のど真ん中で売買された記憶もあるんだぜ?」
「はあ」
そういえばそんなニュースがあったような気がする。主婦層で、まるでスナック菓子のように売買され、大手のグループが摘発されたとか。
「んで、そこの男子生徒は何かあったの? ぱっと見て、失神してるみたいだけど」
「精神的に、疲れてたみたいなんです」
邦英は苦笑しながら答えた。
「色々と学校生活を送る上で、生徒は色々なストレスを抱えてしまっていますから」
邦英は寂しげに微笑み、男子生徒の頭を撫でた。いいなぁ羨ましい、と蓮羽はその光景に見とれる。
「まあ、それも仕方ない。社会の中で生きていくうえで、納得できないことは多々とある。一部では、それを否定する連中もいるらしいがね」
にやり。そんな風に斉藤は蓮羽に笑いかけた。
蓮羽は斉藤が嫌いではない。カウンセリング能力と資格を持ち合わせた彼女を、嫌ってはいないのだ。
ただ、ちょっとその笑みが不気味で、まるで自分がケージの中に閉じ込められた実験動物のように思えてくる。実際、斉藤は蓮羽の生き方を面白がっているふしがある。
やれるものならやってみろ、私はそれを面白おかしく見届けてやる、だから存分に踊ってくれとでも言うように。
斉藤 庵とは、そう言った人種だ。人形を操るよりも、観客として劇を楽しむ。常に第三者としての立場を求めている。
蓮羽にとっては、邪魔をするよりマシな人種である。しかし、その不気味な笑みはどうにかならないものか。
「いいさ。んで、さてはて、彼は一体どのようなお荷物を抱えているのかしらん」
カツ、と斉藤はヒールを響かせて、眠りこけている男子生徒に近づく。
そして、その頬を撫でる。ぴく、と彼は反応したが、それだけだ。
「・・・ふふん、なるほどねぃ」
「何か、わかりましたか?」
「うーん、さてはて。良く見えなかったというべきか、何というか・・・」
斉藤は考え込むように腕を組んだ。その目には、いつものふざけたものとは違う、思慮深い光が宿っている。
「まあ、プライベートな問題ですから。邦英センセは、あまりお気になさらず」
「し、しかし・・・」
「・・・・・・・・・」
蓮羽を置いてきぼりにして、話は進んでいく。状況はさっぱりわからないが、そういえば聞いたことがある。
斉藤 庵は“オーヴァード”なのだと。
異能なる力を使ったとも言えなくもない。ひと撫でした程度で何がわかるかなんて、蓮羽は知らない。しかし、それだけで何かが変わり、わかってしまう。
それが、オーヴァードというものなのだから。
「宝田ちゃんも、教室におかえりな。お前には関係ねえから」
「・・・・・・・・」
そう言われては返す言葉もない。蓮羽は無言で、邦英に一礼をして、保健室から出て行った。斉藤をぎろり、と睨むのも忘れない。
そうだ、結局は蓮羽も生徒という枠組みから逃れられない。どんなにそれを否定しようと、そこから抜け出さなければ意味がない。
蓮羽は、まだ高校生で、子供で、大人には逆らえない。決められたレールを歩いていかないと生きていけない。
負け犬だ、と蓮羽はつぶやいた。
何に負けているのか、蓮羽自身もわかっていはいないのだけど。
――――――――――
「いやはや、若いというのは素晴らしい。可能性が無限に広まっとりますなぁ」
ちゅー、と斉藤はパックジュースをすすり、保健室から出て行った蓮羽を見て、好々爺のようにつぶやいた。
「・・・斉藤先生もお若いじゃないですか。正直、独り身というのは信じられませんよ」
邦英が悪戯っぽく笑う。斉藤はそれに毒気を抜かれたようになってしまい、照れを隠すためにがしがし頭をかいた。
「やめてくれますぅ? 何か、邦英センセに言われると、ちょいと、こう、照れます」
「それは珍しいものを見ました」
あはは、と邦英は声を上げて笑った。斉藤はすねた子供のように、恨めしそうに邦英を見上げる。
「いけずなお人・・・」
そう言って、斉藤は眼鏡をかけなおす。仕切りなおしだというように、ベッドで眠っている男子生徒、藤本を見た。
「しっかし、こいつ、どうするんです」
「・・・・・・・・・」
「こいつは、もう、戻れませんぜ」
何を、とは言わない。
事実、もうすでに邦英も戻れない所まで来ている。
「俺は、FH所属とされてますが、実際にFHは欲望を果たすために存在する、組織らしからぬ組織だ。己の望むままに、全てを成すのが意義だってのはご存知で?」
FH所属。それがいかなる意味を持つのか、邦英は知っていた。
FHは、組織だ。しかし、その内容は謎に包まれている。
しかし邦英は、FHがどういった所業に、今まで手を染めていたのか知っている。奇麗事の組織ではなく、欲望のままにオーヴァードの力を振るう。正義の味方に近い存在でない事を知っていたし、信頼できる支配者などと毛頭と思っていない。
「俺はこいつがどうなろうと知ったこっちゃねえ。だが、あんたは違うんだろ?」
「・・・」
こいつ、と指差されたのは、保健室に運び込まれた生徒、藤本である。彼は今は落ち着いたものの、また衝動染みた欲に飲まれるのは、そう遠くない。
「甘ぇな、そいつは優しさじゃない。リスクとリターンを天秤にかけて、どっちでもねえ自己満足が優先されてやがる」
吐き捨てるのでもなく、ただ純粋に真実を斉藤は告げた。
誰も、助からない。その事は邦英自身が一番身にしみている筈だ。
「そんなんじゃ、誰も救えねえ」
突き刺すように、斉藤は続ける。その目に映るのは、事実を告げる冷酷とも取れる光だ。
「あんたは、その事を誰よりわかっていると思っていたが・・・」
「だから、ですよ」
やんわりと、しかしはっきりと、邦英は言った。
「出来る限りはします。ただの自己満足だというのもわかっているんです。ただ・・・」
そう言って遠くを見るように、保健室の外を見る。
第二校舎の外の運動場に、すでに人影はない。あるとしても、用務員の姿だけだ。邦英はそんな情景を、愛でるかのように、そしてどこか眩しげに見つめていた。
まるで、己には場違いなのだと、懺悔するように。
「ここで止まってしまえば、本当に後戻りは出来ない場所に進んでしまいますから」
邦英は、茨の道を選んだ。斉藤はそれを知っていたし、止めるつもりはない。
ただ、無意味に死んでいく姿だけはいただけないと思っての忠告だ。
意味のない言葉の羅列。本当に意味がないと、自嘲していたが、どうやら思った以上に無意味だったらしい。
「・・・訂正しよう」
吐き捨てるように、斉藤は煙草に火をつける。揺らめく炎と煙は、ゆっくりと空に向かって流れ、消える。
「あんたは甘くも優しくもねえ。ただ単に頑ななだけだ」
だからこそ。
だからこそ、邦英は引くことはないだろうと斉藤は察した。絞首刑の台へと、じんわりと近づいていく姿を見つめる傍観者。それが自分だ、そう思っていた。
だがしかし、邦英の厄介さの最大の理由は。
「そして、強くもあるから厄介なんだよ。畜生が」
戻る
CASE:01:Start Line
日常の終わり
昨日と同じ今日。
今日と同じ明日。
しかし、世界は繰り返し時を刻み、変わらないように見えた。
――だが、人々の知らないところで既に世界は変貌していた。