しくじったな、とネリエルは思う。
何をどうしくじったのかというと、地面に倒れているノイトラだ。
彼は息荒く呼吸をする。胸が大きく上下に膨らんだ。ぜえぜえと、倒れている無様な姿をネリエルに見られたくないのか、月のようなフォルムを持つ方天戟を杖に立ち上がろうとする。
だが、それは失敗に終わった。何度も試すが、ノイトラは白砂に魅入られたかのように立ち上がることが出来ない。
「・・・くそっ!」
それはまるで、流砂に足を取られた虫のようだった。ノイトラ自身、良くわかっていることだ。
「・・・ノイトラ」
「触んじゃねえっ!」
手を差し伸べたが、それはあっさりと弾かれた。予想はしていた。ネリエルはどうしたものかと思案する。
そもそもの発端は、とある命令だった。
その命令により最上大虚を、ヴァストローデを探すことになったはいいが、そのペアの相手がノイトラだ。この愛想のなさは仕方がない。
そして、ヴァストローデを探している最中、ノイトラがアジューカスによって傷を負った。大したことないと言っていたのでほおっておいたのだが、それから様子がおかしい。
見ての通り、顔は脂汗がびっしりと流れ、身体は痙攣している。うまく呼吸できず、喉の奥から乾いた音がする。
明らかに変だ。
ネリエルはノイトラを注意深く観察した。そして、気付いた。
太ももより、少し下の部分、袴で隠されたはず場所が露出していた。
「ノイトラ」
「っ・・・触んな・・・」
言いながら抵抗するが、力が出ないらしい。ノイトラは立つことが出来ず、尻餅をつき、ネリエルは注意深くノイトラを観察した。
そして、足。袴の破れたところを見ると、そこには傷があった。ノイトラの鋼皮の硬さは十刃の中で特筆すべきものだが、わずかながらの傷を完全に消し去ることは不可能だったらしい。
傷口は紫色に染まり、見るからに毒々しい。
「・・・毒」
先ほど戦ったアジューカスにそんな力があったのだろう。ネリエルは己の迂闊さにため息を漏らす。
「離せ、ネリエル・・・」
「喋らないで。苦しいんでしょう?」
ノイトラはその言葉にネリエルを射殺さんばかりに睨んだ。
だが、緊張ではない、得体の知れない痛みと、熱を吸い取られる感覚のせいか、いつもの覇気はない。
「・・・俺に構うな」
「嫌よ。一度、宮に戻りましょう」
「うるせえっ・・・!」
ノイトラはネリエルの胸倉を掴んだ。いつものネリエルなら振り払える。病人を乱雑に扱うわけにもいかず、ネリエルは黙ってノイトラを見据えた。
「テメエなんかに、情けをかけられる身にもなってみろ・・・反吐が出る!」
「・・・知らないわ、そんなこと」
情けをかける。
確かにノイトラのいう通りかもしれない。否定する要素は存在しない。
だが。
「私が勝手にやっていることよ。あなたが気にする必要なんてない」
「屁理屈を・・・っ」
「黙って」
ネリエルはノイトラの二の腕をつかむ。ノイトラは抵抗したが、無視した。ただでさえ力が入らない状況で、実力は遥かに上のネリエルに抗えるはずがないのだ。
「私を振り払う力もないのでしょう。だから、抵抗しないで。大人しくして。さすがの私も怪我人を手荒に扱いたくないわ」
「・・・ったれが・・・」
糞ったれが、と。
ノイトラは己の心情を口にしながら、瞼を閉じた。もともと、もう意識は手放す寸前だったのだ。強靭な精神力で、何とか耐えていたが、そろそろ限界が近い。
ネリエルに知られるのだけは、死んでもごめんだったのだが。もしも、これを知ればネリエルは、くだらない意地と笑っただろう。
ノイトラに言わせれば、意地は張るためにあるのだから、意地を張って何が悪いと言ったことだろう。
生きていくうえで、呼吸するのが必要なように。魚が水の中を泳ぐように。そうしないと死んでしまうのだというように。
だから、ノイトラは気付いていなかった。
ネリエルは意地よりもノイトラの命の方が何より重いのだと、無意識に言った発言に。


声をかけられた時は何の冗談かと思った。
まず目に入ったのが、あのネリエルがノイトラを抱えた姿だ。言うまでもなく、それを見た者は各々の反応を見せた。
もっとも、それを見たのは二人しかいないので、反応は二種類しか存在しない。
ただ、それを見た時の驚愕した顔は二人とも同じだった。あのノイトラがネリエルに担がれているというだけで、奇妙な光景である。
肩を抱えているのも不気味だろうが、ノイトラを荷物のように肩の上に抱えているネリエルも、何と言うかシュールな光景だ。
「・・・不思議な光景だね」
嘲りに良く似た笑みを浮かべて、稀代の霊性兵器を生み出す科学者は同志を出迎えた。
「何だい、ノイトラのヤツが君にちょっかいを出してとうとうくたばったのかい?」
ザエルアポロの揶揄った口調にネリエルは眉をひそめた。
「・・・そんなんじゃないわ。怪我をしているの。そこに毒が入ったらしくて、今は気を失っているわ」
「・・・ノイトラ!」
それを聞いてテスラは、ネリエルによって丁寧に地面に寝かされたノイトラに駆け寄った。その目は閉じられ、呼吸は荒い。
「治せるの?」
「・・・ふうむ。まあ、何とかなるんじゃないかな」
駆け寄ったテスラを押しのけて、ザエルアポロはノイトラの脈を取る。事務的な仕草は、科学者というより医者のようだった。
「・・・ただ、必要なものがある」
「何だ?」
テスラが問うと、ザエルアポロはにやりと笑った。

「君の血が欲しい」

「・・・・・・・・・・」
それは、決してテスラに言ったものでも、無論倒れているノイトラに言ったものでもなかった。
「君の霊子構造を調査したいんだ。それに構わないかな?」
「ザエルアポロ、そんなことを言ってる場合か!?」
冷静なテスラが珍しく声を荒げた。
「ノイトラをお前の研究に巻き込むな。ネリエル様は関係ないだろう」
「あるよ」
さらりと、ザエルアポロは何でもない口調で言った。
「この毒がどんなものか察しはついている。そのために、彼女の血が必要だ。薬を作るためにね」
ザエルアポロは薬といっても、専門的に作ったことはないのだ。そのための材料も無限ではない。不安材料の一つを消しておくのは、疑り深いザエルアポロという虚の本質のせいだ。
「断っても構わない。ノイトラにだって、虚なら自己治癒能力はあるはずだ。それに賭けてほおっておくことも一つの手段ではあるけど」
「そんなこと・・・っ!」
できるわけがない、とテスラは言いよどんだ。
逆にザエルアポロは何を言っているんだ、と肩をすくめる。
虚は自己治癒能力は特に優れている。その性質は、虚の中でも、大虚に見られる超速再生などが代表格だろう。そんな恐るべき治癒力を持つ虚は多く存在する。
しかし、破面となり、死神に等しい属性を持った破面は、その生命力が著しく低下する。人間に近い性質を持ったせいで、治癒力が低下していく。
皮肉なことに、人に近づけば近づくほど、死に近づいているのだ。
「・・・毒は、どんな効果を持っているかわかるの?」
「単純に体力を奪うタイプだね。獲物を弱らせて、保存しておくものだから、死にはしないよ」
ただし毒が抜けるまで死ぬほど苦しいけどね、とザエルアポロは笑って応えた。テスラが刀に手をかけようとして、ネリエルがそれを制し、一歩前に出た。
そして、真っ直ぐにザエルアポロを見据えて言う。

「わかったわ、受け取りなさい」

ざすっっ!

ネリエルは躊躇なく、自分の手首をかき切った。あまりの思い切りの良さに、ザエルアポロは目を丸くし、テスラは唖然としていた。
「約束なさい。私の血に、ノイトラを助けると」
まるで、臣下に命令を下す女王のような威厳だった。ザエルアポロは背筋を伝う冷や汗を隠せずに、肯定の意を示した。
ザエルアポロはネリエルの手首からあふれ出た血をスポイトで回収し、どこに持っていたのか、試験管の中に保存した。一時間くらいでできあがるから、と告げて己の研究室に向かった。
ネリエルはそれを聞いて、ノイトラをまた抱える。ただし、肩に担ぐようなものではなく、足の関節と、腰を抱き上げる、いわゆるお姫様抱っこの形式で。
その光景にテスラは硬直したが、ネリエルのついて来なさいという澄んだ声で我に返った。
ネリエルの前方を決して歩かないよう、そして、気を失ったノイトラを絶対に視界に入れないようにして、テスラはネリエルを追いかけた。
ひとまず、眠れる場所を探そうというのがネリエルの考えだったのだ。


第三宮のネリエルの自室にあるベッドにノイトラを寝かせた。
テスラは女性の部屋に入るのに抵抗があったが、本人の了承を得ると緊張したように部屋に入った。
「・・・汗がひどいわね」
目を閉じたノイトラに覇気はない。テスラが悲しげにそれを眺めた。
「・・・テスラ、お水を汲んできて。酷い汗だわ」
「・・・・・・・・・。身体を拭くのであれば、僕がやります」
「いいわ。私がここまで運んだんだから、それくらい・・・」
「いいえ。ノイトラは、その、ネリエル様に、手を煩わせたと聞いたらその、あの」
言いよどむテスラの様子に、ネリエルはきょとんとしたが、何となくわかった。あのノイトラが身体をネリエルに拭かせたと聞いたなら、きっと激怒する。それを憚って、遠慮していたのだろうとネリエルは推測した。
実際、女性が男の服を剥ぎ取って、汗を拭くという事に、悲しいかなネリエルは羞恥心を持ち合わせていないようだ。この辺は彼女の持ち味なので、直しようがないのが悲しい所だ。
そして、テスラが水を汲んできて、タオルを渡した。テスラが何ともいえない複雑な顔をして、ちょっと部屋から出て行って欲しいと言った。
おそらく、ノイトラの気を使ってのことだろう。もしもノイトラが出て行けといったらネリエルは素直に反応しないだろうが、テスラの丁寧な物言いにネリエルはあっさりと応じた。色々と腑に落ちないが、納得したのはテスラの人徳の賜物だ。
この人徳の差こそ、ノイトラが決定的に足りないものなのかもしれない。
一時間もかからず、三十分程度で汗を拭く作業は終わった。疲れていたようだったので、仮眠をするかと聞いてみると、テスラはなぜか少し慌てて遠慮した。
「・・・遠慮しなくて良いのよ」
「いえ、本当に結構です」
苦笑いを浮かべて、テスラは後退りした。こんな光景をノイトラに見られたらどうなるか、想像するだけで恐ろしい。
ネリエルはテスラの返事にそう、と小さく言った。簡単に諦めてくれたので、テスラはほっとした。
「・・・ネリエル様、ノイトラを第八宮に運んでもよろしいですか?」
「え?」
「・・・大分、落ち着いてきましたし、それに・・・」
「それに?」
また歯切れ悪い言い方にネリエルはテスラの顔をのぞきこんだ。テスラはそれに慌てて後退し、微苦笑を浮かべる。
「きっと、ノイトラは、ネリエル様に自分の弱いところを見せたくないので」
そう言って、テスラは眠っているノイトラに微笑んだ。それは全てを見守る慈父のようにも、全てを受け止める友人のようにも見えた。
弱いところを見せたくない。
実にノイトラらしいと、ネリエルは思った。そして、その考えに苦笑を隠せない。
弱い部分を必死に隠そうとして、背中の毛を逆立てる猫みたいだ。その逆立った毛並みに触れようとすれば、恐れて引っかこうとする。
ノイトラは獣だ。
理性よりも本能を優先し、悟性よりも直感を信用し、好悪によって全てを判別する。
肉をそぎ、骨を砕き、傷口から這い出る膿のような、醜悪な穢れた動向。あまりにもわかりやすく単純、それゆえに厭っている。
獣から人に戻り、また獣の道へ歩もうとする。人であろうとする自分とは、対極に位置している。
おそらく、ノイトラの中にあるヒエラルキーでは獣が、強さが上位にあるのだろう。そして、下位には彼が弱さと決め付けた、理性がある。
その理性を重んじるから、自分が気に入らないのだとネリエルは考える。
ノイトラとは、おそらく、わかりあえない。
それは予測でも推測でもなく、単純に事実と事象を統計し、成立させた偽らざる解答だった。
ノイトラと、ネリエルの道は交差しない。
ネリエルは目を瞑り、やがて開けた。
「送ってくわ。それに、これは重いし」
そして、ネリエルは立てかけてあったノイトラの武器を持って、微笑んだ。


自分の宮に引っ込んだノイトラと、その親友を見送り、ネリエルは自分の宮に戻った。
ザエルアポロには後で伝言をしよう。
それから、約束しようと、心のうちで呟く。
ノイトラは獣だ。
法の通用しない、闇に潜んだ獣。
理性よりも本能を優先し、悟性よりも直感を信用し、好悪によって全てを判別する。
だから、守ってやろうと思う。
どんなに嫌がっても、拒んできても、守ってやろうと。
自分よりも弱い獣を、雨に打たれて項垂れるであろう彼を。
獣の道理をノイトラが貫き通すのなら、こちらは人の道理を貫き通してやろうと。
屈辱にまみれた表情を浮かべるノイトラが、自然と頭に浮かび、フッと笑う。
追いかけてくればいい。
獣では決して届かない高みで、見下ろそう。
獣では決して届かない強さで、守ってやろう。
それは、ノイトラに対するネリエルのささやかな仕返しで嫌がらせで、親愛の情だ。
そして、想像する。
もしも自分が第八宮に薬を届け、世話をしてやったらどうなるのか。
ネリエル自身、気付かなかったが、唇の端には笑みの形が刻まれていた。




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