「・・・君がいなければ、あの方は僕を認め、愛してくれただろうか」
 生気のない澱んだ瞳。その目は死んだ魚のように虚ろで、まるで亡霊のようだと思う。
 目の前にいる男、レイスはあたしのたった一人の肉親である兄の部下である。
 そして他の特徴を挙げるなら彼は、あたしが知る限り、この世で美しい男と称するに相応しい唯一の人物である。
 きめ細かい肌は、高級シルクのようで、血管が透けて見えるほどに病的に白い。
 長い睫毛のかかる目元は、目を伏せただけでどきりとする。
 紺色の、人工的だが、どこか自然な色に染められた髪の毛は、耳元でそろえられ、額にかかる程度の長さで揺れる。
 通った鼻筋、眉毛、目の位置、そして血のように赤い唇。全てが完璧で、計算しつくされたかのように美しい。
 空に浮かぶ星のように、夜色に瞬く美貌を持つ男、レイスは何の表情も浮かべずに、あたしの顔をじっと見つめた。
 美しい。レイスを称するのには、その一言で充分だろう。ただはからずも彼と深く関わりを持ってしまったあたしは、彼を形容する言葉を“美しい”以外にいくつか知っている。
 すなわち、禁断の同性愛、倒錯的思考、どうしようもない変態。
 ついでに加虐嗜好趣味のサドと、被虐的行為をされるのが好きなマゾも付け加えたい。もっとも、この二つはラストのどうしようもない変態全てに集約されているのだが。
 ホモなのは許そう。男が男を好きになってはならないとお偉い宗教家は言うが、誰かを好きになるのだけは神様だってどうしようもない事実だ。
 変態も許そう。人を甚振ったり、嬲られたりするのが好きだという悪趣味っぷりだが、そこはそれ。人様の趣味、嗜好に口出ししてはならない。
 だがしかし、これだけは勘弁していただきたい。
 ――倒錯的思考の持ち主。
 つまり彼は精神的に病んでいて、しかも恋愛にその危ない思考が利用されるのだ。
 日本で流行ったスラング、俗語で言うならヤンデレ。そう、レイスは文字通りのヤンデレだった。この単語を発見した時は、感動したものだ。人間を一言で言い表すことに、素直に感心した。神秘の国、日本。侮れない不思議国家だ。
 レイスは恋をしていた。しかし、あの利用されることが当たり前である殺伐すぎる人間関係に、愛などというものが割り込めるのか、それは疑問だが。
「兄貴は誰にも心を開かないわよ」
 悲しい限りであるが、レイスはとんでもない男に恋をしていた。何でよりにもよってと泣きたくなるが、あたしの兄、クロードに恋している。
 それを実感するたびに目頭が熱くなり、本気で泣きたくなる。別に兄貴がホモだろうとバイだろうと、仏教の悟りに目覚めようと構わない。兄の自由だ。兄の人生だ。だが、兄はレイスを愛していなかった。それも仕方ない。なぜなら愛は常に一方通行で、帰り道の用意されない片道切符。両思いになる確率というのは、極めて低いだろう。
 目の前の男、レイスはあたしを射殺さんばかりに睨みつけてくる。
 それは例えるなら、愛しい女を寝取られた男の嫉妬の視線。
 もしくは、倒さねばならぬ敵を前にした復讐者の視線だ。
 レイスの目には、悲しいかな、前者の嫉妬の割合が大きい。
 知らなかった。憎悪よりも、嫉妬されることが恐ろしいとは。しかも、相手が男だともっと恐ろしい。
「君を殺せば、クロード様は悲しむ」
 陰鬱な声でレイスは言った。それは、悲しいことに事実だ。
「・・・あれにそんな心が残っていればだけど」
 あたしは肩をすくめる。兄はもはや狂気にさいなまれ、人としての情けなどない。愛なんてものは、とうの昔に捨ててしまったのだ。
「クロード様は君を愛している」
「家族愛ね。人を人と思わぬ腐れ外道が、何を血迷ってんだか」
「殺すぞ」
「・・・あのねぇ。あのお方を愚弄するなら、くらいの前置きをして欲しいんだけど」
 長ったらしい言葉のやり取りは期待していなかった。レイスはそんな無駄な行為は好きではなく、常に冷淡に色々と省略した単語をつなげた文章で会話する。
 それを理解できる自分にも、色々と問題はあるのだろうけど。
「君はクロード様の敵だ」
 確認するように、そしてこれが最後の通告であるかのように、レイスは言った。
 そう、レイスの言う通り、あたしは兄貴の、クロードという一人の破壊者の敵対者だ。
 兄は遺伝子工学の優秀な学者だった。世界でも有数の頭脳ともてはやされ、事実その通りだった。兄は世界規模で活躍する企業に就職し、医療機材や薬品製造の業務に携わった。
 しかし何があったのか、いきなり研究成果の一つを持って会社を脱走。
 兄貴は、自分が開発していたものが、とても危険な生物兵器と気付いたのだ。
 これで兄貴が世界のために生物兵器を破壊すると豪語したなら、あたしは喜んで協力したであろう。
 受け取った手紙には、世界を滅ぼすなんて抽象的かつ下らない計画があった。人間全てにおいて絶望してしまった兄貴の行動は早かった。
 自爆テロ、爆破テロ、国家の重要人物誘拐。ご丁寧にも兄貴はその経過と計画を全てあたしに打ち明けた。
 ――私を支えてくれないか?
 白い便箋という古風な手紙。毎回事件が起こるたびに送られたそれには、常にそう締めくくられていた。
 あたしは段々不安になり、兄貴の足取りを追い、そして敵となった。冗談などではなく、人類の撲滅を目指す兄貴の目は本気だった。死ぬ覚悟すら決めていた。
 レイスはそんなあたしの妨害を撥ね退けた、危険度ダブルどころかトリプルアクセル級の超絶危険人物だった。
 兄貴について熱く語る彼の目を見て、兄貴に惚れていると気付いてしまった。
 何かの冗談だろうと、そんな淡い期待を抱いて、ただ疑心を晴らすために聞いたそれは見事に当たってしまった。
 あの時ほど、常に役立つ勘の良さを恨んだ覚えはない。
 そして、全ての元凶、あたしの倒すべき最終目標といえば。
「クロード様は君を愛している」
 レイスは繰り返す。兄貴はあたしを愛している。夢みたいな台詞。愚か過ぎる言葉。
 頭が痛い限りだ。それが家族愛ならばどんなに嬉しいだろう。
「わからないのなら、何度でも繰り返す。クロード様は、君を女性として、異性として、この世でもっとも尊い存在として愛しておられる」
 くらりとくる貧血症状を跳ね除けて、あたしは倒れないように踏ん張った。
 信じられないが本当だ。兄貴はあたしのことを妹としてではなく、異性として好きらしい。
 兄貴は予想以上に真剣だから嫌だ。たまたま好きな女性が妹、つまりあたしだった。
 あたしはどうにもこうにも兄を恋愛対象としてみることが出来ない。それは、きっとあたしにとって兄貴とは家族だからだ。兄貴とは空気であり、常にあたしの側にいた。切磋琢磨し、お互いを高めあう競争相手であり、尊敬する相手であり、目標だった。
 それが何を間違って妹を愛するなどと言うのだろうか。これだけはあたしの中で永遠の謎だ。ずっと側にいたというのに気付けなかったからこそ余計に謎だ。
 あたしは問いかける。誰にでもなく、自分自身に。兄の間違った愛情を向けられ、絶世の美男子に嫉妬される自分の立場は一体何だろうと。
「あたしは兄貴を愛してなんかいない」
「知っている。クロード様はそれをご存知だ」
「じゃあ、なぜあんな事を。他人を傷つけてまで、兄貴のしたいことって何よ?」
 何度もした問答だ。けれど、答えはいつも同じ。兄貴の答えとレイスの答えは、まるで鏡に映したみたいに常に同じだった。
 兄貴のしたこと。それを思い出すたびに、あたしは身が引き裂かれそうな痛みを思い知る。
 兄貴のテロ活動に驚きつつも、親しかったがゆえに止めようとした、あたしの協力者。
 かつては兄貴の仲間だったが、彼が間違っていると察し、あたしに味方してくれた裏切り者。
 あたしを信じて、ただ真っ直ぐに共に歩こうと、手をつないでここまで来るはずだった友人。
 それだけではない。兄貴を阻んだがゆえに、失われたものは数多い。関係のない人も、数多く存在したであろう。
 傷だらけになりながら、必死に抵抗した。そうして戦っていくうちに、あたしは自然と、それが始めから決められたように一人となった。
 横にいた仲間はすでになく、あたしは兄によって仲間を、友を、時には愛した人を失った。
「人を駆逐する。それ以上でもそれ以下でもない」
 他人を傷つけてでも成すべき事。レイスの答えも、直接聞いた兄貴の答えも、それ以外の兄貴の掲げる目的に同調する連中も、全てが同じ答えを告げる。
 まるで壊れたラジオから流れ出る、無意味な音の羅列。
 あたしには理解できない。理解したくもない。してはならないのだ。
「理解できなくて、構わない。もしも理解できたなら、その瞬間に僕は君を百に切り刻み、千の塵に返さなければならない。あの方が求められているのは、どこまでも這い上がる敵対者。あの方にとって君がそれに一番相応しいようだ」
 あたしの考えを察したのか、レイスは微笑む。しかし、それは壊れた笑みだ。整形手術をした後、無理やり慣れない皮膚を歪めて作り出したような、不自然な笑み。
 その笑みが語る。なぜ君なのかと。なぜ愛されているのかと、憎悪と嫉妬を織り交ぜて嫌でも伝わってくる。
「君を殺せば、あの方は僕を見てくれるだろうか」
 レイスは呟く。先ほどと似たような事をまた言っている。独り言なのか、それとも脅しなのかわからない。
 狂っている。狂った男の狂った恋。そんな事をしても、意味がないということに気付いていない。
「・・・無理よ」
 あたしはレイスの目を、しっかりと見つめる。その黒々とした目には、あたしの姿が映っていた。
 血塗れの、白いシャツを着たあたしが。
 己の血ではない。それは、あたしが殺した誰かの返り血だ。
 この血の主は、この世界に存在したあたしの唯一の肉親だった。そう、肉親だったのだ。
 あたしはすでに兄貴に呼び出された後で、一つの戦いを終えた帰り道、レイスに引き止められてここにいる。
 解放してやろうと思った。だからあたしは、ゆっくりとレイスに宣告した。
 それは、おそらく彼にとっての死の宣告にも等しい。
「兄貴とはもう、二度と会えない。決着はつけた。さっき、脳天をぶち抜いてやったわ。死体はそのまま、動かしてない。その目で確かめてみれば?」
 あたしの冷淡な声を聞くと、レイスは兄貴の下へ走った。
 まるで、飼い主に二度と会えぬ事を察した犬のように、泣き叫んで。



――――――――――



 兄貴との決着は予想以上に簡単だった。
 というか、レイスという護衛がいない無防備状態な上、あたしを携帯電話のメールで呼び寄せるという兄貴の神経は色々おかしい。
 兄貴はあたしと二人っきりで会いたいと提案した。
 それを聞いて、あたしはとりあえず、護身用の小型拳銃を太ももホルスターに差し込んだ。ジャケットを着込み、その裏にはナイフを三本ずつ差し込む。
 腰には革ベルト。一応、改造スタンガン(ただし外見は警棒)を差込み、ライターが着火するかどうか確認。隠し武器である指輪に差し込まれたナイフと、ワイヤーが出てくるか調べる。
 多分、大丈夫だろうと思う。一応念のため、髪型を整える小型の整髪スプレーを持っていく。いざという時は、これを発射しながらライターを近づけ、お手軽火炎放射器にしてしまおうという考えだ。
 こんな重装備だが、実際に役に立つのはどれほどのものか。
 あたしは将来、日常を守る警察官になりたいとは思っていたが、今ではただの秘密工作員もどきに成り下がっている。あたしの薔薇色の人生は兄貴によって、色褪せた。
 もし兄貴を恨んでいるのかと聞かれれば、哀れんでいると答える。
 兄貴のことは尊敬していた。家族として愛していた。けれど、兄貴はあたしの知らない所で、人間に絶望してしまった。そして、その絶望に押しつぶされ、壊れてしまった。
 それが、哀れだと思う。誰かに頼ることも、相談することもできなかった兄を、あたしはただ哀れに思う。それは同情ではなく、真の意味での悲しみだった。
 そんな兄貴に呼び出された場所はホテルではなく、借家であるビルの一室。そこに兄貴は、クロードはいた。
「ようこそ、我が妹」
 兄貴は変わっていなかった。短く刈り上げた茶色い髪に、銀縁の眼鏡は就職祝いにあたしが選んだ代物で、もう何年も使いまわしている。
 一見すると、大人しそうな理知的な優男だが、あたしはその内に秘められた、凄まじい憎悪を知っている。
 命乞いする黒人の女性を容赦なく銃弾で撃ち殺してきた。怯える老人も、子供も、肌の色、人種、文化、全てにおいて差別なく殺してきた。
 常に人間を害虫でも見るような、汚らわしいと言わんばかりの視線を送った姿は、あたしの知らない兄貴だった。それを見て始めて、あたしは兄貴の憎悪を知ってしまった。
「顔も見たくなかったわ、このダメ兄貴。この世界のために死ねばいいのに」
 辛辣すぎる言葉。それに少しでもいいから傷つけばいいと思った。
 あたしは忘れない。あたしを助けようとしてくれて、命を落とした人々を。あなたならあいつを止められると言い残し、あたしを守るために死んだ人々。
 多くを犠牲にしたあたしと、多くの人々を理想と憎悪のために殺した兄貴と。あたしたち二人は兄妹であるがゆえに似ていた。顔立ち以外にも、その部分だけでも似ている気がした。あたし達は、犠牲を出しすぎるのだ。
 兄貴はあたしの言葉に傷ついた様子は見せない。にこりと、比喩でも何でもなく、今ではあたしにしか見せない柔らかな笑みを向ける。
 この笑みのために、一体何人もの人が狂わされたのか。そう思うと、あたしは人間の脆さに恐怖する。
「良くわかったね。今日は私の命日だよ」
「は?」
「別に狂ったんじゃないよ」
「嘘付け。あんたはもう、とっくの昔に狂ってる」
「酷いなぁ」
「あたしが好きだとか、頭膿んでるんじゃないか?」
「一人の男として、一人の女性を愛するのは、そんなにおかしなことかな?」
 何を言っているのか、この男は。
 あたしは頭のスイッチを、切り替える。目の前にいる男は、あたしの兄などではなく、ただの敵であると。
「ふざけるな。お前に人を愛する資格なんてない。今までの行動を省みろ。あんな真似をしたお前が、誰かを愛する? 笑わせるなよ」
「酷いな。僕は確かに多くを殺してきたけれど、誰かを愛する資格はあるよ。そもそも愛する資格なんてのは存在しない。できるか、できないか。それだけだよ」
 口での論争は敵わない。わかっていても抵抗せずにはいられない。あたしは兄貴を、否、クロードを睨んだ。
「・・・命日ってどういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
 一拍おいて、クロードはつまらなそうに言う。

「君に、僕を殺して欲しいんだ」

 あたしは何も言えなかった。まだ、あたしを殺したいという方が納得できた。
 こいつは、今、何と言った。
 君に、僕を殺して欲しい。そう言ったのか。
「色々と試してみたけど、ダメだね。僕は永遠に苦しむよ。そして、その苦痛から逃れるために、この世界を滅ぼす」
 するだろう、とか、多分、とか、そんな不確定な未来を予想するのではなく、クロードは己の今後を断定した。
 それ以外、道はないと言うように、はっきりと言い放った。
「疲れたんだよ。破壊するのも、人の上に立つのも。君に叶わない想いを抱き続けるのも。だから、殺して欲しい」
 救いのない人生だろう、と微笑むクロードに、あたしは何て言ったらいいのかわからない。
 クロードは、あたしに拳銃を手渡した。使い慣れていないそれは、クロードの護身用の拳銃だった。
 ずっしりと、それは固くて、はてしなく重い。
「引き金を引いて・・・額を撃てばそれで終わり。君の復讐も使命も、全部終わり。後が大変だろうけど、生きていれば大丈夫だろう」
 自分の事を他人事のように語りながら、クロードはあたしの手の上にあるそれの安全装置を外し、グリップを持たせた。いつも見慣れた鉄の塊が、いつもよりもずっと重い。
 あたしに拳銃を持たせると、クロードは銃身を自らの額に押し付ける。
「・・・さあ、頼むよ」
 喉の奥が熱い。身体全体が得体の知れない薄ら寒さに覆われた。
 足が、動かない。何だ、これは。何だ、この状況は。
「どうしたの? 引き金を引くんだよ。それだけでいい。それで全てが終わるんだ」
「・・・どう、して・・・?」
 目から涙が零れた。ぽたりと、白い地面に一粒の水滴が落ちる。
 ずっと、ずっと聞きたかったことは声にならない。嗚咽と化して、言葉にならない。
「どうして・・・!?」
 何で、どうして、なぜ、どうして、どうして!?
 心の中で叫び喚くが、それはうまく声にならない。ただ、半端な疑問だけが紡がれていく。
「・・・ごめん、その質問には答えられない」
 銃身を持ったまま、クロードは笑う。そう、笑っている。
 いつもいつも、あたしはこの笑顔しか知らない。兄貴の怒った顔や泣いた顔なんて、見たことない。
 笑顔しか、知らない。
 それがどうしようもない違和感となってしまったから、あたしは兄貴に牙を向いたというのに。
 なのに、目の前のそれは、世を儚むような形容しがたい、諦めた表情だった。
「でもね、もう・・・疲れたんだよ。愛するのも、愛されるのも、憎むのも、憎まれるのも・・・全部」
 クロードは苦笑いを浮かべる。あたしは、流れる涙を拭き取った。
 愛するのも愛されるのも憎むのも憎まれるのも。
 詩の一節のような全てに、疲れたとクロードは言う。
 そんな悲しむような顔をされ、憎んできた男に殺してくれと頼まれて。
 あたしは何が出来たのだろう。
 ただ、一言を告げるだけだ。
「・・・おやすみ、クロード」
「ああ、おやすみ」
 ぐっと涙をこらえて一言。
 指を引いて、銃声は一発。
 それだけで、全てが終わった。



――――――――――



 泣き喚く男の背中というものは、始めて見る。
 あたしは、レイスの背中を眺めながら、ぼんやりとそう思った。
 今生の別れすらしなかったレイスは、兄貴の死体にすがり、子供のように泣き叫んだ。
 兄貴が生きていたのなら、きっとレイスを鬱陶しいの一言で振り払っただろう。
  レイスはそれに傷つくのだろうか。傷ついたのだろうか。想像するが、それは想像でしかない。
  兄貴は、クロードは、あたしが殺したのだから。
「・・・レイス」
  いい加減、二時間もぶっ続けで泣かれ、手持ち無沙汰になったあたしはレイスに声をかける。
「・・・っ!!」
 レイスは、振り向くとあたしの首をその手で掴んだ。
  ぎりり、と指先に力が入る。苦しい。痛い。
「お前が、お前が・・・っ!!」
「・・・っ」
  あたしは目をひそめる。痛みのせいもある。けれど、死した男にそれほどすがるレイスが、どこか哀れに思えた。
「クロード様を、殺したのか」
 質問のようにも、あらかじめ決められた答えを聞くかのようにも聞こえた。
 あたしは、答えられない。
 愛されることに疲れたから、愛することに疲れたから、死んだなんて。
 兄貴を愛していたレイスに言えるはずがない。
 救いようがない愛であるとは知っていたが、だからと言ってとどめを刺すのはいかがなものか。あまりにも報われなくて、レイスがかわいそうだった。
「お前が、殺したのか」
 さすがに誤魔化しきれない。あたしは首に手をやられたまま、うなずく。
「・・・っ!!」
 レイスは、あたしの首を掴んだ指先に力を込めた。苦しい。呼吸が出来ない。意識が少しずつ飛ぶ。頭の中が、白く染め上げられる。
 だが、全てが消え去る前に、レイスはあたしを抱きしめていた。
「・・・レイス?」
 自分の状況がわからず、あたしは思わず聞き返した。
 この男は何をしているのだろう。
 目の前にいる敵を前にして、何をしているのか。
「・・・僕は、どうすればいい?」
「え?」
「あの人を、失った僕は、何を支えに生きていけばいい?」
 か細い声は、レイスの口から出ているものなのかと、本気で疑いたくなる。
 あたしを殺そうとした男の言葉とは、とても思えない自信のない問いかけだった。
「僕は、あの人しかいない。あの人のいない世界で、生きていけるはずがないと思った・・・なのに、僕はこうして生きている」
 クロードを守れなかった事を悔いているのではなく、クロードと共に生きることも死ぬことも、何も出来なかった。レイスは、それが悔しく、何よりも悲しいらしい。
 どくんどくんと、レイスの鼓動が嫌でも耳に入ってくる。それが、どこか心地よくて、油断すれば眠ってしまいそうだった。
「教えてくれ。あの人の・・・あの人の妹なら、わかるだろ? 教えてくれ・・・僕は、どうすればいい?」
 気弱な質問は、涙さえ誘う悲しみに満ちていた。
 あたしはどうするべきか。優しく彼を励ますべきか。
 それとも。
「・・・・・・・・・」
 あたしはレイスの胸の中に、腕に囲まれながら考えた。温かい。この心地よさを失うのは、少し悲しいと思った。
 目の前にある道に迷った哀れな子羊。そんな存在に、あたしは道を示してやるのか。
 そして、あたしの出した答えは。
「・・・知らないわよ」
 抱かれたままの状態で、あたしはレイスにそう言った。
「自分で考えなさいよ。あたしは兄貴みたいに、あんたに命令しない。ああしろ、こうしろなんて、そんなこと言えるわけないじゃない」
 あたしは指導者ではない。
  誰かの行動を指し示し、誘導し、全てを救ってやれるような人間にはなれない。自分のことだけで手一杯なのだ。他人を助けるような余裕などない。
「考えて、考えて、考えて。その上で、正しいと思ったものを選べばいい。そこに後悔はあるかもしれないけど・・・」
 どんな選択を選んでも、惜しむことはある。けれど、人は過去には戻れない。未来を見ることも出来ない。
 前さえ見えなくて、不安しかない世界だけど。
「道は無限にあるんだから。その中で幸せになることは、絶対に不可能じゃない」
「・・・・・・」
 レイスはあたしの答えを黙って聞いたまま、何も言わない。
 その沈黙が恐ろしくも、どこか心地よい。
「・・・なら、歩いてくれ」
「え?」
「・・・一人では、歩けそうにない。僕の足は欠陥品だ。だから」
 レイスはあたしを強く抱きしめ、懇願した。
 ああ、そうか。レイスは不安だったのだ。そして、始めから知っていたのだ。クロードの苦悩を、悲しみを、全てを。
 一番側にいたくせに、救えなかった。彼を支え、愛していたからこそ、歩けなくなった。生きる糧を失ってしまった。
 レイスは、空っぽにならざるを得なかった。愛する人を、自分以外の誰かが殺してしまったから。
 そんな虚無を抱いた男が、あたしを求めている。あたしに嫉妬し、憎悪し、なぜお前なのかと何度も無駄な問いかけをし、全てを失った男が。
 レイスは、始めて会った時から、どこまでも純粋で、眩しく、美しい。美しいからこそ、絶対にこの手に取ることはないと、そう感じ続けた。
 敵でありながら、あたしは実の所、レイスに惹かれていたのかもしれない。ただのストックホルム症候群のような、勘違いかもしれない。
 けれど、目の前にいるこの男は、あたしを必要としている。それだけは、偽りのない事実だ。
 そう思うと、急に愛しく思えた。
 少し前までは、お互いに首を狙っていたのだから、不思議なものだ。
「わかった」
 あたしはうなずく。
 そして、ふと思った。これは兄が死んだ後の後始末の一環ではないかと、そう感じたのだ。
 あたしは兄貴と決着をつけた。けれど、それは終わりではない。始まりだ。
 かくして、かつては敵同士であったあたしとレイス、クロードという男によって結び付けられた奇妙な付き合いが始まる。
 それは、兄貴の残した、ささやかな後始末だった。